芸術と道徳の補足、改訂作業を終えて

 旧版、西田幾多郎全集3巻に収録されている「芸術と道徳」の改訂、補足作業がとりあえず終了しました。これから芸術と道徳を読まれる方に向けて何か参考になることがあるかもと思い、この文章を書いています。

 「芸術と道徳」は、西田が「自覚に於ける直観と反省」において到達した「意志」の形而上学を、「意識の問題」において洗練化した後、芸術と道徳に関する諸問題をその立場からまとめ上げたものと言えると思います。ただ後記にはこう記されてあります。

“…著者自身序に言う如く「真とか実在とかの問題は未だ此書に於て十分論ぜられてゐない」。又これらの問題を動機にして文化の世界の考察が始まり、社会と個人、法と道徳の如き問題に触れている。しかしこれらの問題は更に後年に到って改めて根本的具体的に取り扱われるのであって、ここでは未だその端緒というべきであろう…”

  以上を踏まえると、西田哲学という一連の体系的思想における「芸術と道徳」が持つ特異的な点は、重要著作と見なされている「働くものから見るものへ」の前著であるという所にあるのではないかと思っています。私は「働くものから見るものへ」の理解を挫折した人間です。このような作業を行っている目的の一つに、「働くものから見るものへ」の中に収められている「場所」という重要論文を原文で理解できるようになること、があります。「働くものから見るものへ」の後記から引用しますが、西田哲学の特徴は、

“ただただ前の論文は次の論文を動機づけ、後者は前者の補正、深化、徹底として成立したものであり、かくして各論文はいずれも過程的系列的性格をもっている”

ということにあると思います。今までの著作の作業を通じても、これは徹底して一貫しています。西田哲学は、思想が論文を重ねるごとに体系的に深まっていくにつれて、西田独特の用語の使い方や思想の深化が徐々に付加されていく類のものです。少なくとも今までの著作においては西田の思想的立場は「善の研究」からほぼ一貫しています。最初からゆっくり時間をかけて読み進めれば十分に理解の及ぶことのできるものだと思います。そういった意味で、「芸術と道徳」の理解が十分であれば、次著「働くものから見るものへ」の理解も決して及ばないものではないのではないか、この著作は、中期~後期西田哲学の基礎となる「場所」という重要論文を攻めるための、橋頭保的役割を果たすのではないか。淡い期待も込めて、そう思っています。

 本著作を理解するうえで一番大切なのは、前著「意識の問題」と同様、西田が言う「意志」という概念をどう捉えるかという点に尽きると思います。意志については「自覚に於ける直観と反省」及び「意識の問題」を読むのが一番だと思いますが、「美と善」において割と簡潔に西田が叙述している部分があるので、そこを抜粋します。

“‥‥ただ我々の思惟というのは、作用の作用である意志の反省的方面としてすべての作用の統一の立場であるが故に、この立場における自覚は自覚の自覚として、すべての自覚の根源となり、すべての自覚はこの立場において成り立つと考えられるのだ。
 我々は通常、自己が自己を省みる、省みる自己と省みられる自己と一つであるということを自覚と考えているが、我々の自己は単にかかる知的統一ではなく、自己が自己を省みるというのは自己が自己の中において働くことであり、自己が一歩進むことであり、その事自身が消すことのできない自己の歴史を構成することである。すなわち客観的事実となるのだ。この意味において、自己は作用が直ちに作用を生む動的統一であり、創造的作用であると言うことができる。私が自己の本質を意志と言い、行為と考えるのは、これによるのだ‥‥我々の自己はその創造的方面において、知即行、行即知である。芸術家の創造作用は、それが行であると共に知である。筆の先、鑿の先に眼があると言うべきだろう。我々はこの立場において、知識によって達することのできない世界を歩みつつあるのだ‥‥。

 本著作において、西田は意志の反省的方面を思惟(または理性)と位置づけ、その創造的方面を芸術家の創造作用のようなもの、あるいは歴史の世界(または文化の世界)と位置付けています。創造と反省は意志の表と裏を示します。反省の方面は理解しやすいのですが、創造の方面は多少厄介です。西田は序文において、「「法と道徳」において一言した如く、真の所与は単に芸術的構成に偏したものでもない。ただ、私は芸術的直観という如きものによって、かかる所与を最もよく理解し得ると思ったのである」と述べています。作用の作用、作用を統一する作用である意志の動的、創造的方面の所与を、西田は芸術的直観という言葉で例えていますが、これは多少誤解を生むかもしれません。西田も述べているように、「真の所与は芸術的構成に偏したものでもない」からです。

 私は「美と善」「法と道徳」「真と善」「真と美」をあえて抜粋して別noteに載せましたが、その理由は、この4つの論文を抑えれば次著「働くものから見るものへ」に進めるのではないかと思ったからです(「真と美」はやや難しく感じました)。この4つの論文は本著の結論に相当すると思われます。

 次回からいよいよ個人的な本丸「働くものから見るものへ」の作業に入ります。「場所」や「絶対無」を中心とする中期西田哲学は、西田哲学専門の小坂国継先生曰く、※「この時期の西田の思想がきわめて思弁的・抽象的であって、その論旨が晦渋を極めている‥‥実際、中期の西田哲学はとりわけ難解である」という内容のものです。場合によっては理解が及ばず途中で放棄して逃げ出す可能性も視野に入れています。なるべく逃げ出さないように頑張る所存ですので、見て頂いている方がいらっしゃいましたら、温かく見守って頂けると幸いです。

※ 引用 「西田哲学の研究」 はしがきⅱ 小坂国継 

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