西田幾多郎 小論「私の判断的一般者といふもの」補足
この小論は、西田幾多郎が昭和4年3月に東大哲学科談話において「カントとフッサール」という題で講演したものを改題して、同年5月、『哲学雑誌』(第五〇七号)に掲載したものに、補足を付けたものです。
以下に小坂国継先生の「西田哲学の研究 場所の論理の生成と構造」p127から文章を抜粋し、この小論をあえて抜粋した理由を示します。
『…以上が「私の判断的一般者といふもの」の梗概である。そこでは、「場所の論理」の生成期の西田の思想が簡潔かつ明晰に叙述されている。それゆえに、それは彼の晦渋な「場所の論理」を理解するには簡便な小論であるであるといえる。また、ある意味では、それは西田自身によって書かれた場所の論理の「解説書」の役割を果たしているともいえよう。しかしながら同時に、それはあまりに簡略を旨としたがゆえに、委曲を尽くせぬ部分や割愛された部分も多々認められる。したがって、その点は、「一般者の自覚的体系」に収められた諸論文によって補完されるべきである。いずれにせよ、本論文は、「働くものから見るものへ」と「一般者の自覚的体系」とを結ぶ通路ともいうべき、また「絶対無の自覚的体系」の原型ともいうべき、きわめて重要な論考といえるであろう』
働くものから見るものへ
一般者の自覚的体系
私の判断的一般者というもの
今日日本の哲学界ではカントとフッサールとが一般に行われていると思うので、実はカントとフッサールとの考えを述べようと思ったが、その前に大体私の考えを述べないと結び付きが悪い。もしかするとこれで済むことになるかもしれない。ともかく私の考えから先に話してみたい。
私はよく判断的一般者ということを書くのであるが、この判断的一般者とはいかなることを意味するであろうか。すべて知識は判断の形で現れていなければならない。そこに哲学の生命がある。この判断的知識を定めるものを判断的一般者という。そこでよく誤解を受ける。すなわちいかにして判断的一般者から進んで深いものが出て来るかという疑いを受けるが私はそう考えているのではない。直覚的なるものと論理的思惟とを関係づけるために、まず判断的一般者から出立して我々の考えの根底にある直覚というものがいかなるものなるかを明らかにしておこうというのである。判断的一般者で考え得る直覚的知識を明らかにしておこうと思うのである。決して判断的一般者を基礎とするというのではない。つまり私の判断的一般者というのは知識として手前にあるものから始めるという意にすぎない。かかる関係をつけないと昔からの哲学の深い直観的知識と論理的思惟とが結び付かない。そこで判断的一般者から述べる。
何かが概念的知識として成り立つためにはそれが概念的に定まらなければならない。概念的にすなわち一般的に定まるということが知識が成立するということである。そうでないと知識は成り立たぬ。かかる定め方は種々あると思う。
第一に分類によって物が定められると一つの知識の体系が成り立つと思う。例えばこの物はコップであると言えばこの物をコップという一般概念の中に入れる。かかる一般概念を抽象的一般者という。それから次第に種差を加えてこの物は何かということを定める。かかる物の定め方を分類という。かかる知識の定め方が概念的知識の組織の根柢となっているものと思う。
然るに斯様な定め方ですべてのものを定めてゆくことは出来ない。すなわち個別者に到達するを得ない。抽象的一般者に何処まで種差を加えて行っても個別者に到ることは出来ない。かかる考え方はギリシャにあった。それはDiairesis(分類?)によって考える方法であった。プラトンではDies(これ?)ということとIdee(イデア?)との結び付き方が難しくなっている。
このような分類で物を定める方法もあるが、更に第二に判断的に物を定める方法である。判断的に物を定めるのは分類とは違う。判断はS ist P(SはPである)という様なものであるが、Pは述語でこれは常に抽象的一般者に結合する。Sは述語を定めるものである。述語は常に抽象的一般者になるのである。かくて判断が構成されるが、それに客観性を与えるのは分類の体系ではない。分類における類は述語になるから分類は判断と平行には行く。すなわち分類の種と類とは判断のSとPと互いに平行する。しかし分類では個別者に到達しない。然るに判断では個別者が根柢となる。かかる考えを出したのはアリストテレスである。Substrat(Hypokeimenon、ヒポケーメノン、基体)は個別者であって主語となりて述語とならぬものである。アリストテレスのHypokeimenon(基体)が述語にならないというのは、先に言った分類の基礎になった抽象的一般者に於いてないということである。かくて個別者というものが考えられ、主観的でなく客観的な知識の体系が理論的に考えられる。アリストテレスの論理学になると個別者を※οὐσία(ウーシア。実体)と考え、ここに知識の基礎を置く。さればοὐσίαによって我々の知識は定められる。
※ 引用 ウーシアとは
かかる考えは主語を中心とした考えで、これを主語的論理学と言うことが出来るであろう。プラトンでは個別者と普遍者(一般者)との関係がつかない。アリストテレスは思い切って個別者に向かった。そこで主語そのものが自分自身を規定する。PはSによりて定められる。かくアリストテレスではプラトンと逆な立場にある。アリストテレスの立場が今日までの論理学の立場である。アリストテレスの個別者は述語にならぬ。物を普遍者の中に規定しようとすれば個別者が入って来ない。然るに我々は普遍者の中に規定しなければ知識を構成することが出来ない。ここにかかる論理学の難点がある。そこでかかる方向に進めば形而上学にならねばならないのである。すなわち我々の概念に入らないものが概念を限定するということになるのである。しかし上述の如き個別者が考えられるときにはこれを限定する何らかの普遍者が無くてはならぬ。
今度は再び翻って普遍者から個別者が限定されるということを考えなければならぬ。概念の外に出たならば知識は成立できぬ。けれども抽象的一般者を以て限定することは出来ない。そこで考えを変えて見なければならぬ。一体アリストテレスの論理学ではIndividuum(個別者?)が基礎となっているが、判断的知識はいかにして成立するか。判断的知識は一般者が自分自身を規定することによって成立するのである。そこでヘーゲルの論理学の立場が考えられるが、ヘーゲルにありては概念はdas Allgemeine(普遍者?)でこれは自分自身をdifferenzieren(規定?)する。Urteil(判断)はursprungliche Teilung(根源的分割)を意味するのである。普遍者が自分自身をur-teilen(独自に規定?)し、そして自分自身に帰りしものが個別者である。普遍者が個別者だといっても、このヘーゲルの行き方はアリストテレスとは逆である。普遍者から個別者を定めるので、普遍者が自己を規定するのが判断で、かくて個別者が定められる。かかる考え方はヘーゲルに始まったかどうか知らぬが、とにかく然しヘーゲルの論理学が最も立派にかかる考えを明らかにしたものである。かかる個別者を定める普遍者とはいかなるものとなるであろうか。
そこで問題は個別者を定める普遍者とはいかなるものかということになる。この事は先にも言った通り抽象的普遍者(抽象的一般者)ではいけない。ヘーゲルの場合はこれに反して具体的普遍者(具体的一般者)である。しかしヘーゲルにおいてはAllgemeines(普遍者)がIndividuum(個別者)であると言い得るであろうが、Allgemeines(普遍者)が無限のIndividuum(個別者)を含むという意味が明らかでない。私はかかる意味を現すために場所という言葉を用いるのである。これは個別者を含む普遍者である。どうしてそういうことが言い得るであろうか。
アリストテレスの論理学では
S bestimmt P. (主語Sが述語Pを規定する?)
である。個別者が基礎になる。逆にヘーゲルでは
P' bestimmt S'.(述語P’が主語S'を規定する?)
となる。この二つの場合は逆である。しかしS=S’と考えれば二つの論理学の関係がつく。すなわち前者は主語主義の論理学、後者は述語主義の論理学である。このP'は私の言う場所というものになる。ヘーゲルによるとP'を動的なものとなし、個別者を含むものとは考えない。すなわちdynamische Logik(動的論理?)となる。
分類で考えると類から種に進んで行く。最後のものがletzte Spezies(最後の種)である。この場合Pがすべてを含む普遍者である時これを場所という。【ヘーゲルの場合にはenthalten(個物を包含する)ではなくentwickeln(個物に発展する)になる。】
何故にenthalten(個物を包含する)ということが言えるか。
論理学でUmfang(外延)とInhalt(内包)ということを言う。極く単純なことで初歩の論理学にも説いてある。Inhalt(内包)が増加すればするほどUmfang(外延)が小さくなると言われるが、逆に一般の一般という方向から言えばUmfang(外延)が大きくならねばならぬ。一つの一般者の中において限定することができないものを包む一般者はかかる一般者を超えたものでなければならぬ。この関係を維持すると個別者に近づけば近づくほどUmfang(外延)が大きくなる。この時Umfang(外延)はいかなるPをも含むPとならねばならぬ。個別者はかかるUmfang(外延)に於いてあるものである。一体論理学でいうUmfang(外延)とInhalt(内包)とは分類においてはUmfang(外延)とInhalt(内包)との両方面が重要視されているが、Konkrete Logik(具体的な論理?)ではUmfang(外延)は軽んぜられている。ヘーゲルの如きもInhalt(内包)の方面を主として論理学を組織した。それでInhalt(内包)を決定するものはUmfang(外延)ではなくてEntwickelung(発展?)のみになる。すると概念的に物を定めることが消えて論理学から形而上学に移る。さればUmfang(外延)は何処までもなくてはならぬものである。かくて個別者は場所に於いてあるもので、場所は、個別者を規定するものである。場所はギリシャにおいては物質であって、zertrennendes Prinzip(分割原理?)である。すなわち物質はVielheit(多様性?)を規定するものである。一体カントあたりの範疇はInhalt(内包)を定めるものでUmfang(外延)を規定するものではない。従って私の言う場所を規定するものではない。しかしカントより出立しても場所の考えが必要なのはラスクのGebietskategorie(領域の範疇)などに依りても推測される。然るになぜ場所が必要であるかはラスクのような立場からしては出て来ない【フッサールにおいてはRegion(領域)を限定するものとなる】。これは普通の範疇とは違うが、これが考えられなければならぬことは上流のことで明らかである。ここにおいて前に立ち返り、抽象的一般者がいかなる意味を有するかを考えてみる。
一般者が自己自身を限定することが判断であり、述語するということは主語的なるものが抽象的一般者において自己自身を限定することである。抽象的一般者というのはあたかも一般者の場所に於いてあるものが自己自身を映す鏡の如きものである。一般者そのものから言えば、抽象的一般者とは一般者自身の限定せられたものである。限定せられた場所と考えることもできる。すべて具体的一般者は自己の中に自己限定面【すなわち限定せられた場所】を有し、一般者が自己自身を限定するということは自己自身の限定面において自己に於いてあるものの内容を映すことである。判断的知識は斯くして成立するのである。一般者の限定が進むに従って、自己限定面は場所そのものに近づき、これに於いてあるものが自己自身を限定するものとなり、すなわち互いにvermitteln(媒介?)するものとなる。自己限定面は単なる抽象的一般者という如きものでなく媒介面となる。斯くして単に場所に於いてあると考えられた個別者は終にはTatigkeit(作用=活動?)になる。
斯くしてともかく多少は判断的一般者の意味を考えることが出来るであろう。
かく考えてくると判断的一般者にとってはdas Seiende(存在するもの?)は場所に於いてあるもので、その限定面において各自の内容を限定する。かかる判断的一般者は一般者の最も簡単なもので、これにより判断的知識として限定されるものは、対象界の知識である【例えば自然界の如き】。しかし我々の意識界はこれと同じ様に限定することは出来ない。型は同じであるけれども単に判断的一般者によって意識を限定することは不可能である。判断的一般者により規定されるものは個別者であり、最後のものは活動である。これをも一つ越えると自我である。自覚である。これは活動では限定出来ない。自我は活動を自己の中にenthalten(包含する)する。しかし自我は活動にはならぬ。自我は単に活動として規定することは出来ない。自我は判断的一般者に於いてある最後のものを更に超えたもので、これは判断的一般者で規定できない。かかる自我を規定する普遍者(一般者)はいかなるものであろうか。我々がこれ(自我)を自覚的なるものとして規定する以上、ここに普遍者がなければならない。これを自覚的一般者という。判断的一般者よりいかにして自我に(を?)超える必要があるか。判断的一般者で考えることを最後とするならばそれで終である。しかし自覚というものを考える以上、これを考えるDenkformen(思考の形式?)には一般者がなければならぬ。自覚を考えることを許すとすればかかる自我を限定するものがなければならない。この自我を限定する一般者は判断的一般者を超えた自我を包むものとなる。逆に言うならば判断的一般者は自覚的一般者の限定されたものである。かかる訳で先にはproteron pros hemas(我々にとって先きなるもの)ということを言ったのである。
今度は自覚的一般者について話す。形式は前の判断的一般者と同じである。das Seiende(存在するもの?)は客観的にあるものではなくて自覚的のものである。然らば自覚とはいかなるものであるか。自覚とは知るものと知られるものとが一つであるという様なことをいう。しかしこれでは自覚を限定し得られない。
フィヒテはDenken des Denkens(思考の思考?)と言い、無限のTathandlung(事行)という。それは単に考えることと考えられることとが一つという様なことではなく、もっと深い。しかしフィヒテでも自覚はよく表せない。自我には一つの直覚面がある。これに於いて無限に自己の行先が写っていると考えるべきである。自分の中に無限に自己を見ている。すなわちフィヒテの言う如き無限の過程をも自己の中に含むのである。斯くいわゆる自己は自覚の中に映される。これは丁度個別者が述語的に抽象的一般者に写されると言うのに相応する。無限に自己を写す直覚面は個別者の於いてある場所の如きものに当たる。これらの関係が前に判断的一般者について言ったことと並行する。すなわち前の場合には一般者の限定面として抽象的一般者と考えられたものは今の場合は知的意識面となる。intellektuelles Bewusstsein(知的意識?)においては限定面と自我の於いてある場所すなわち直覚面とがくっついている。しかしdas Seiende(存在するもの?)としての真の自己は意志的自我でなければならない。自覚的一般者に於いて最後にあるものは意志的自己である。自覚的一般者に於いて限定せられる意識界は意志的でなければならない。心理学で説くものはこの中にある。更にこれを超えて進むと我々はカント哲学の先験的自我に行くを得る。
我々は自覚的一般者の上にも一つ一般者を考えることができる。これを叡知的一般者と言おう。叡知的一般者の自己限定はSchauen(直観)である。自覚的一般者に於いてあるものは直覚面に於いて無限の過程として自己自身を映す。その主客合一したものがSchauen(直観)である。Schauen(直観)に依り無限の過程を超越して直覚の世界に入る。即ちIdee(イデア)の世界に入る。かかる内容を限定するのが叡知的一般者である。
上述の如き立場から現象学について一言して見よう。意識の根本的形式は自覚的と考ふべきであって、自覚的一般者に於いてあるものが※Noesis(ノエシス)になる。その限定面に於いて写された内容がNoema(ノエマ)になる。判断的一般者で言えばSの位置を有するものがNoesisでPはNoemaである。現象学の考え方に不満なのは、意識の根本的性質をIntentionalitat(志向性?)に置くことである。私は意識は自覚を根本的形式にしなくてはならぬと思う。意味を充たすなどというが意識の中に対象を含まなければ、かかることは不可能である。Akt(活動?)がerfullenする(充たされる?)というのには自覚がなくてはならぬ。
※ 引用 ノエシスとノエマとは
(大まかに捉えると、ノエシス面=意識であり、ノエマ面=対象である)
叡知的一般者は今言える如くSchauen(直観)によって自己を限定するものでSchauen(直観)の内容がIdee(イデヤ)である。noetischなもの(認識できるもの?)は自己自身をSchauenするもの(直観するもの)で、そのNoemaはIdee(イデヤ)である。
終りにカントとフッサールとの考えについて一言して見よう。先に言える如く自覚的一般者の最後にあるものは意志である。自覚的一般者と叡知的一般者との境を成すものは意志である。意志を超えて叡知的自己の立場に入る時、その意識面はまたノエシスとノエマとの対立をなす。カントの意識一般とはそのノエマ的方向に考えられたもので、フッサールの現象学的立場はそのノエシス的方向に考えられたものである。しかしこれらに関する詳細なる論は雑誌「思想」において発表する「自覚的一般者に於いてあるもの及びそれとその背後にあるものとの関係」と題する論文に譲ることとする。
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