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なじみの店

なじみの店が今日店を閉める。今日で最後という感じがしないまま、いつも通るこの道をいつものように歩く。今日はマスターに何を話そうとワクワクしながら通った道。この道を通るのも今日で最後。
通い詰めたあの店が今日店を閉める。マスターが淹れる珈琲はいつ飲んでも格別だった。
寡黙なマスターだったが、珈琲の話になると饒舌に話すマスターがかっこよかった。
俺が話すくだらない話も珈琲を淹れながら聞いてくれていた。
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか店の前まで来ていた。
いつもは今日はマスターにこんな話しよう、あんな話しようって自然に思い浮かんでいたのに、今日はいつものように言葉が思い浮かばない。
店の前で立ち止まっていると、マスターが不思議そうな顔をしてでてきた。
「どうした?いつもならすぐ入ってくるのに」
そう言ったマスターの声はいつもと同じ、穏やかな声だった。
今日この店が閉まるのだと思えないような、いつもとかわらない雰囲気がそこにあった。
店の中に入ると、何も変わらないいつもと同じ光景だった。
いつもの席に座り、いつものように、マスターと話をしながら、飲む淹れたての珈琲は、変わらずいつもの味がした。
マスターと話した時間はたくさんあって、思い出もある。マスターと話す最後の日なのに、何を話そうか考えているうちに飲み終わってしまった。マスターの顔をみると溢れてきた言葉たち「マスターお疲れさま。今までありがとう」たくさんの想いを込めて涙混じりの声で心を込めて伝えた言葉たち。
マスターは「ありがとな」とだけいって、また珈琲を淹れる。
今日で終わりなのはうそなんじゃないかと思うほど、いつもと変わらないマスター。
いつもそうだった。俺が大好きだった彼女に振られて男泣きしたときも、会社で上手くいかなくてイライラしてるときも、結婚するって報告したときも、いつもマスターは優しいまなざしで俺をまっすぐ見てるだけだった。
でも俺にはそれだけでもマスターの言いたいことはわかったような気がしていた。
そんなマスターとも今日でお別れだ。マスターが淹れた珈琲を飲むことも、マスターと話すこともなくなる。大事な時間や人を失っていくような気持ちで苦しくなった。
それを察したかのように、マスターはまた俺をまっすぐにみて、「思い出は思い出だから、前向いて生きろよ」とつぶやいた。
マスターと交わした最後の言葉だった。
名残惜しいと思いながら店をでると、マスターは手を差し出してきた。
さよならの握手をして別れた。
珈琲のようなほろにがさが俺の中に広がった。

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