死に方=生き方
久しぶりに如何に生き、如何に死ぬか
考える機会が続いた
誰しも平等に死ぬ
どんなに医学が進んでも永遠の生は得られない
自分が35歳の時に42歳の兄を亡くした
今の私の健康法オタクはこの辺りから拍車をかけたかもしれない
それから20年後
義父母、自分の両親、そして姉(61歳)を亡くすということが一年半位の間に立て続けにおこり
死と隣り合わせにある医療との接し方を否応なしに考えさせられる日々が続いた
この時期の後に拍車をかけたのは、健康法の周辺には必ずウロウロしている「心のあり方」への興味であり、スピリチュアルな分野への傾倒だった。
そんな経緯からまあ、このところは健康法もスピリチュアルも「自流」「わたくし流」に落ちつき、適当さもあいまって深刻さを欠いた感じ!
ここ一週間の間に二つほど、心が揺さぶられる話が続き、死なないつもりになっていちゃあ、あかんやないか!と自分に喝を入れた
90歳前後の叔母夫婦の様子が気になり従兄弟に連絡をした
叔父は脳腫瘍の手術をして、術後、寝たきり、言葉を発することができない、意思表示は僅か、になり、叔母はホスピスへ通う毎日だという。
従兄弟はわざと
手術は成功して父は生きている
という言葉を使った。
従兄弟は93 歳の父親の手術には反対だったという
静かに逝かせたいと思ったけれど、、という
88歳、まだらぼけではあっても旦那を看取ったあとの余生を母は楽しめたはずだったという
叔母は少しでも生きていてほしいという気持ちとその年齢のご老人にありがちな「お医者様が治してくれる」にすがり、どうしても手術してほしいと強く望んだそうだ
そして、術後の結果が受け入れられず、嘆き悲しむ毎日が続いているのだそうだ
基本的には従兄弟の気持ちがよくわかる
私も手術しなくてよかったのではないかと思う
思い出す
90歳の父が逝った時(もう11年前かな)
看護師や非常勤医師のいる施設だからか、あの病状で大きな病院に連れて行きますと言うか言わないか迷った。
もう余分な延命治療はいらないと常日頃思っていたからでもある
それでも、やっぱり、もう一日か二日早く私が行動していたらあのタイミングでは死ななかった
もう一年?もっと?半年だった?
元気に?
寝たきりで?
それはわからないけれど父は生きていたと思うと複雑な気持ちになる
そのことより
あの時、真正面からガチに向き合えなかった自分を思い出す
逃げてた
施設の対応にまかせたふりをして自分の決断、家族との対話から逃げていたんだよね、私は
この思い出に傷みたいなうずきを感じるとしたらそこだよ
延命治療の是非を偉そうに言いながら、いざその時に真摯に向きあえなかった自分の不甲斐なさ
「お父さんごめんね」
と、
今でも時々、そんな気持ちになる
そして、お父さんはどうしたかったの?
そこのところは認知の問題が出る前にもっと両親と話しあっておかなきゃいけなかったのだ
生死を自分以外の誰かに委ねる、委ねなくてはいけないような状態、、、いろんなことを想定して
「私はこう考えている、こうしたい」と言っておく生き方が必要なんだ、、
二つめの話
友人の息子さんがこの春、40歳で亡くなった
そろそろみんなと飲みたいよと彼女が言うんで、飲み仲間が夕べ集まった
彼が身体がおかしいなと思い検査をして病状がはっきりした時には
ステージ4
転移がひどく余命6ヶ月と言われたそうだ
彼が選んだのは
治療しない!
家族みんなで説得したが、
人生は短いのが悪くて長いのがよいとは思わない
もう充分に生きた、、と言ったそうだ。
医者はだったら余命2ヶ月だと言った
自宅で過ごした
母親に好きなものを作ってもらい食べ
店にも食べに行った
着たかった服をネットで買い着た
欲しかった小物で部屋を飾った
自分の祭壇のイメージも考えた
祖父母と母親、弟、訪問看護師や訪問医師、そして離婚した元妻と暮らす高校生の娘さん、元妻、友人達となごやに濃密な2ヶ月半を過ごし逝った
友人はこれでよかった、息子の言う通りだったと爽やかに言っていた
彼女は夕べ、泣かなかったよ
ふーむ
誰もみな、死に向かって今を生きている
「死」は自分で準備したい
だからピンピンコロリではなく
ピンピンの後、ゆっくりと弱っていく自分を感じ、身の回りの整理をし、そして、少しだけゴロンゴロン寝てお世話になった方々に「ありがとう、さようなら」をして静かに逝く、、、
ができたら最高だよなあ!と思う
これだけのことをやりとげるにはあんまり長生きしていたら無理かもだ
頭もしっかりしていないと
抗がん剤しません
呼吸器しません
胃瘻もしません
水も飲めなくなった時、点滴しません
(あえて記載しておきますね)
そんなことを今、思って
この気持ちをnoteに書いておきます