4月に死んだ動物たち(詩)
4月に死んだ動物たちの供養塔を建て、
これは嘘であったとする儀礼。
ドキュメンタリーとは嘘である。
見せたい自分を見せるだけ。
ドキュメンタリーという虚構。
ただその中で、もし演劇が行われるならば
そこに「ほんとうのこと」があるのではないか。
虚構の中の入れ子の虚構、そこにふっと現れるどちらでもないもの。どうやらそれが一番確からしい。
何度か同席したドキュメンタリー作家の監督が言っていたことである。
彼は「ほんとうのこと」を見つける手段として、虚構のなかに虚構を混ぜる。ただし、それは虚構を体良く見せる為、デザインするためではなく、虚構から虚構を引き剥がして、隙間を作るために行うのだ。
古代インドの思想書「バガヴァットギーター」の中で、最高神でありながら、人間の賢者として現れるクリシュナはこう言う。
「結果に執着するな。行為に専念せよ。」
戦場で弓を置いてしまった勇者アルジェナに対し言った言葉である。
アルジェナは敵国に親友や師匠がいることを見つけ、彼らを殺すことはできない、私には戦うことなどできない、と戦いを放棄してしまうのである。それに対し、クリシュナは戦えとアルジェナに言う。
「勝つ、負ける、殺す、全て結果である。どちらが良いも悪いも結果に囚われている。それは愚者のすることだ。義務を果たすのだアルジェナよ。賢者はその行為に専念する。全ての行為は儀礼である。捧げものであるのだ。そして、その儀礼が神に捧げられたものであるかどうか、それこそが重要なのだ。義務とはそう言うことだ。」
クリシュナはそう言いアルジェナを立ち直らせる。
昔、アイデン&ティティという映画を見た。みうらじゅんが、原作であり、銀杏BOYZの峯田が主演。青春パンクが流行っていた私たちの高校ではまさにバイブルとなる映画であった。もれなく私にとっても好きな映画となった。
その中で峯田は言う
「やるべきことをやるだけさ、だからうまくいくんだよ」
みうらじゅんやいとうせいこうのようなサブカル雑誌まわりの人々が合言葉にしていた言葉があると言う。
「でもやるんだよ」
彼らは人の家のゴミからレシートを漁ってその人の生活を考える遊び等を雑誌に掲載するろくでもない人間たちであった。そんなことをして喜ぶ人もいなければ、誰かに認めてもらえるわけでもない。もしかしたら自分自身すら辟易しているかもしれない。なんのために。どんな意味で。
でもやるんだよ。
それは有用性に飲み込まれた世界で孤独となった彼らを支える強力な根拠となったのだ。
クリシュナもみうらじゅんも峯田も実は同じ事を言っているのではないか。そして私の知り合いのドキュメンタリー作家の彼も、結果ではないもの、そこに「ほんとうのこと」を探したのではないか。
有用性の究極的な否定の彼岸に、ほんとうのことは探される。
4月に死んだ動物たちは、供養され、供犠を必要とする。
誰もが、それに否を唱える。そんなことして何になるんですか。それより、前に未来に、貴方にそんな必要はない。何故、悪を引き受けなければならないのですか、馬鹿だなあって思って死んでいくだけなら、貴方はなんのために生きたのですか。貴方に石を投げて、貴方が死んだことも気づかずにのうのうと生きる人たちのためですか。なんでどうして。
でもやるんだよ。