落とし穴

 青年は仕事帰り、駅前の歩道で、落とし穴に落ちた。
 突然のことに呆気にとられながら、落下時間が長いことに気づいた瞬間、底に着地した。痺れるような痛みを下半身に感じ、上を見ると、とてもじゃないが登れそうにないほど地上は遠かった。
「なんだこれ、どういうこと?」青年は穴を見回すと、そこは直径2メートルほどで意外と涼しく、とりあえず座ることにした。そもそも駅からほど近い歩道に、何故、こんな落とし穴があるのか。マンホールではない。いくら見ても、水道管やガス管の類や、下水道も見当たらない。
「すいませーん、誰がー、助けてくださいー」
 なしのつぶて。
 その時、
 誰かの叫び声が聞こえたと同時に、目の前にオッサンが落ちてきた。
 浅黒い肌、右目が変な方向に向いていて、歯はカバの本数しかなく、ウンコのようなシミのついた白シャツを着ている。
「なんだこれ! どういうことだよ、お前」
「あ、いや、僕が知りたいですよ」
「俺はな、酒買いにいく途中だったんだよ。どうしてくれんだ」
「いや、その――」
「ふざけんなよ、え、おい、莫迦にしてんのか」
 オッサンのまくし立てに辟易し、心のシャッターを下ろした。
「誰なんですか、莫迦にしてませんよ」
「誰でもないよ。いいから、早くここから出せよ!」
「僕が出してほしいです、いい加減にしてください」
 斜視である上、怒りに震え、汁という汁が飛び散り最早、話が通じないことこの上ない。
 青年は、思い出しようにオッサンを殴りつけ、怯んだところをヘッドロックし、落とした。オッサンは弛緩し、ぐったり、壁にもたれた。それは一瞬のことで、青年はこれでよかったのかと、若干の後悔をした。
「それはそうと、どう脱出したらいいのか」
 青年はとりあえず、壁に右手をかけると、丁度良く引っ掛かる感触を得た。左手、右手を引っかけると足が浮いた。
「これはいける」とふら付いた足のつま先を勢いよく壁に突っ込むと、しっかりとめり込む。
 この要領で、じっくりと上へ、上へと登っていく。脂汗を流しながら登りきると、空には満点の月が輝いていた。シャツとズボンの土埃をはらい、腕時計を見ると時刻は午後十時。
 喉元過ぎれば熱さを忘れるで、颯爽と帰途につく。
 自宅アパートの前の道路で、
 足場が消えた。
 コンマ何秒かのところで、穴の入り口の縁に手をかけた。なんとか腕力で落下を免れ、這い上がると、穴から声がする。
「なーんだよ、話が違うよ、おーい。まったく、しょうがねぇ」
 浅黒い肌、右目が変な方向に向いていて、歯はカバの本数しかないオッサンが落とし穴の底に、立っていた。
 オッサンが苦々しい表情を浮かべた直後、穴が完全に塞がれ、元のアスファルトの道路に戻った。
 階段に足をかけたその時、
 意識が途絶した。
 目覚めると、そこは病室だった。
 酸素マスクや管が繋がれ、ベッドに寝かされていた。両親が心配そうに見ていて、母親が「先生!」と言って病室をでた。父親は「わかるか? お父さんだぞ」
 青年は安堵の表情を浮かべる。
 翌日。
 どうやら、仕事帰りに交通事故に巻き込まれ、病院に運び込まれたと説明を受けた。何度か心停止したらしいが、なんとか持ちこたえ、息を吹き返したということだ。
 青年は退院すると仕事に復帰し、その仕事帰り。例の歩道にやってきた。
当然、落とし穴はなかった。
 その時、
 前方で男性が車に轢かれた。あまりの勢いで飛ばされ、地面に落下するところで、落とし穴に落ちた。
 それを追うように、あの、オッサンが穴に入っていった。
 一瞬だが、目が合ったような気がして後ずさると、穴は消えて、男性がうめき声をあげて、歩道で血だらけになっている。その場をすぐにでも立ち去りたい気持ちを抑え、119番通報をした。
『119番消防です。火事ですか? 救急ですか?』
「救急車お願いします。〇〇駅前の南口の△△商店街のコンビニの近くです、急いで下さい」
 青年は110番もして、被害者の男性の様子を見ようと近づくと、何か、うわごとのように、目をつむりながら喋っている。
「誰なんですか、莫迦にしてませんよ」
「僕が出してほしいです。いい加減にしてください」
 

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