明日は、母の日ですよ。
2024年の母の日は5月12日(日)。毎年、母の日は5月の第2日曜日で、ゴールデンウイークが明けてすぐの5月の初旬~中旬頃。
母の日は、毎年5月第2日曜日という事は決まってますが、日付や曜日が変わる為、「母の日っていつだっけ?」となる。
それを避けるため、カレンダーにあらかじめマークしておく私。
日本において、大日本連合婦人会が1931年(昭和6年)に結成された。その際、同組織は皇后(香淳皇后)の誕生日である3月6日(地久節)を「母の日」としたが、普及しなかった。
1937年(昭和12年)5月8日に、第1回「森永母の日大会」(森永母を讃へる会主催、母の日中央委員会協賛)が豊島園で開催され、1949年(昭和24年)ごろからアメリカに倣って5月の第2日曜日に催された。
母の日に母親が健在の場合は赤色、鬼籍に入っている場合は白色、それぞれのカーネーションを贈る習慣が広く知られる。新卒の社会人は時期的に初任給の支給と重なるので、初任給でプレゼントを購入することも多い。
5月5日のこどもの日は、国民の祝日に関する法律第2条で、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝すること」を趣旨にと定めている。
だそうです(Wikipediaより引用)。
私の母は既に鬼籍に入っているので、仏壇に飾るため、綺麗にアレンジメントされた商品を購入(カーネーション三本をコンパクトにしたやつ)。
毎年、飾って、枯れてきたら捨てるのは忍びないので、庭に埋めている。
「去年も同じことを書いたような気がする」
それはそれとして、
母が存命の母の日は何をしていたのか、思い出してみよう。
2002年5月から2005年2月の癌闘病時代は、とくに何もしていなかった気がする。いや、病室に飾ったような。
思い出せん。悠久の彼方である。それ以前の、中学生まではプレゼントしていたような。これも悠久の彼方、、、、
切ない。
一緒に過ごしていないと、記憶は薄れていくもの。
思い出されるのは、
『ロールキャベツ、コロッケ、鶏の唐揚げ、ハンバーグなどすべて手作りで、料理上手で家事万般が完璧な、満点主婦』
『躾は厳しく、よく怒られていた』
『田舎の祖父が入院していた時期、兄弟で一番遠くに住んでいるのに、一番世話に行っていたな』
『自分のためには何も買わず、人のために忙しくしていた』
『風邪をひいたときにつくってくれた、おじやが美味しかった』
家庭的で、利他的で、我慢強く家族に尽くした人だった。その上、夫婦関係に苦労して、心労が重なっていたことだろう。
それでも粘り強く懸命に生きていたのに、48歳で子宮頸癌が発覚し、入退院を繰り返し、最後の1年は腸に転移して固形物が食べられなくなった。
51歳で亡くなった。早すぎる死であった。
その瞬間は、私も病室にいたが涙はでなかった。数カ月前に「もう助からない」と診断が出ていたからか、もう既に泣いていたからか。
神様がいるとしたら、あんまりだ。
故に、私は神様は信じないし、宗教も信じることはない。
重くしんみりしてきたが、そんなに苦労して、苦しんで早逝した母を想って毎年、カーネーションを買っている。来年も買うことだろう。
ちなみに、父親は11年前の3月に虚血性心不全で急逝しているが、コーヒーが好きだったので、缶コーヒーを供えている。
母の日は否応なく、家族を想う日である。
同時に自分の人生を振り返る、自分と向き合う日でもある。両親とも鬼籍にはいっているので、必然的に過去を見る。不思議と気分が爽やかになるのは、気のせいだろうか?
カーネーションを供えたことで、母があの世から一瞬だけ降りてきているのかもしれない。
センチメンタルになったところで、今日が一週間に一度の酒盛りであることを思い出す。今日のアテは、揚げ餃子と目玉焼き10個。
しんみりから、アゲアゲで、土曜日の夜は更けていくのだった。