儀式
入居当日の午前九時。とりあえず、隣室に挨拶をしておこうとスポンジと洗剤を持参し、玄関ドアの前に立った。
不穏なほどに雲一つない空を尻目に、チャイムを鳴らす。
暫しの空白の後、
山伏の衣装を着た壮年の男が現れた。
情報量が多い。
「はじめまして。本日引っ越して参りました田中と申します。引っ越しでは、何かとお騒がせしてまい、ご迷惑をお掛けいたしました。これからお世話になります。どうぞよろしくお願いします」
「はぁ」
壮年の男は気のない返事をし、
「これ、つまらないものですが」
田中は壮年の男に粗品を渡し、
「ご丁寧にどうも」
壮年の男は粗品を受け取り、玄関ドアをしめた。
その一瞬、部屋の奥、何か、獣の、首、が、見えた。
ガタリ。
ドアは閉ざされた。
(あれはなんだ?」
もう一度チャイムを鳴らすわけにもいかず、田中は角部屋、階段の傍の自室に戻るほかなかった。
その夜。
鈴か何か、甲高い音が延々と鳴り響き、お経のような低く野太い声が壁越しに伝わってくる。怒りよりも好奇心のほうが勝り、耳を壁につける。
ふと、
ベランダを見ると、
山伏の衣装を着た壮年の男が立っていた。
満月が後光のように差し込み、表情を窺い知れない。
背後の玄関扉に重い音が闖入する。
郵便受け。
背後に警戒しつつ、中身を確認する。
茶色の紙袋。付箋が貼ってある。
〈これからよろしく〉
田中はゆっくり、慎重に中身を確認した。
肉だ。
袋を閉じた。
振り返った。
ベランダの山伏は消えた。
お返しの品はとりあえず冷蔵庫にしまった。
もう、寝るしかなかった。
(何かの間違いだ、疲れているんだ、環境が変わったから‥‥‥‥‥‥)
翌朝。
せっかくだから、もらった肉を焼く田中。
しかし、何か、癖のある香りに言い知れぬ不気味さを感じ、三角コーナー行きとした、その時。
玄関チャイムが鳴った。
山伏の男だ。
「お肉、お食べになりました?」
「いや、まだ」
「肉の焼ける匂いがする。どうぞ、食べてもらって」
「焼いたのはよかったんですが、少し癖のある・・・・・」
「儀式なんです」
「は?」
「儀式。食べてください。困るんですよ」
「え?」
「待ってるんで、食べてください。大事な儀式なんです」
行くも退くも地獄という事実が、
小鳥も囀る、閑静な住宅街の朝に遊弋していた。