記憶紙片、15歳。

 ある同級生について思い出し、筆をとった次第です。
 当時、スクールカーストなんて単語はなかったと思うが(22年前)、私はほぼ中央に位置し、一度、告白されたぐらいの青春は謳歌していた。
 
 彼は、垢ぬけない岡崎体育をどんくさくしたような風体をしていた。
 彼は、いじられると小さく抗議していたが、流されていた。
 そんな彼のあだ名は、
「ぷしゅん」
 下の名前が「しゅん」だから。彼は、嫌がっていたと記憶している。決して仲が良かったわけではなく、親しみをこめていたわけでなく、なんとなく「ぷしゅん」と呼称していたのだ。やはり、このあだ名は印象がよくない。まず、「ぷ」これは、何かが破裂して穴が空き、空気が漏れた感触がある。「しゅん」はそこから萎んで、情けない印象がある。
 誰がつけたあだ名かは知らないが、そう呼ばれていた。
 眉はさがり、小さく抗議する姿は、今思えば残酷なことをしたと述懐する。確かに彼は、どんくさかった。何がどんくさかったかは記憶にないが、いじられやすい雰囲気のある子だった。「子供は残酷なもの」は常套句だが、まさしくその通り。勉強、運動、ルックス、お喋りと、何か長所がないと簡単に見下す。そして、あだ名が「ぷしゅん」というわけだ。
 悪意はない。だから深刻であると、今は思う。暴力的であれ、精神的であれ直接的なイジメはなかったが、彼を傷つけたのは確かだ。それがその後の彼にとって、悪く作用していないことを祈る。
 綺麗ごとを並べて贖罪したところで、残酷な真実に気づく。社会にでると、残念ながら、そういう弄られやすい弱い人間は、そのまま「弱い立場」
にスライドする。努力して学歴を得たとしても、人間力が高く、勝負所で容赦しない、スクールカースト上位層に踏み台にされる。便利に使われる。
 それならまだマシなほうで、自己肯定感をもてず努力を放棄して、ネット弁慶の子供部屋おじさん、という仕上がり。悲しい末路である。
 なんとも寂しい気分になった。
「ぷしゅん」
 ハイセンスかつ、浅薄な侮辱の込められたあだ名。人の気持ちを考える大人として生きていきたいと思ったところで、もう一つ、記憶紙片をめくってみよう。おっと、白紙だった。そう、そんなにも都合よくネタになるような記憶が舞い降りてくることはない。
 そもそも本稿のネタ自体、膨らませようのない、低質なものである。故に、「紙片」なのだ。それはゴミ箱行きの運命を辿る塵のような記憶。圧縮され、奥底にあった紙片が何故、今になって出てきたのかは分からない。
 ひとつ確かなことは、「よし、今日のnoteはこれだ!」という高揚感は、実際、書いてみると期待外れだったということ。それはよくあることで、なくしていきたい現象。
「明日はもっと、マシなモノを書きてぇ次第でさぁ!」

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