書きあぐねる現況の「元凶」
ここ最近、あまり筆が走っていない。何となく不調のように思えるのだ。昨日のショートショート『記憶旅行』はそこそこの出来だったが、前日と前々日は論外と落第であって、なんとも、いくら考えてもピンとくる、そんなフィーリングがない。または乏しい。それでも書く「物書き的腕力」は継続の成果だが、問題は出来であって、継続に大した意味はない。
ただ惰性で、やる気のあるフリをして、白い画面を文字で埋めているだけなのか。そんな疑いが靄となって視界に広がっている。こうなっては気になって仕方なく、現況の元凶を考えるしかない。
大体、ネタは他人、他者からもたらされる。友人、家族、恋人は何かしらエピソードを持っている。失敗や不幸、恥などのネガティブなものはネタになりやすい。それを面白がって、ふくらまし、悪意をもって面白おかしく書き進める。書いていても楽しそうだ。
そう。
私には、「友人」「家族」「恋人」がない。
唯一の小学校時代からの友人とはここ四年ほど疎遠であるし、家族はといえば、両親はとっくに鬼籍にはいっているし、恋人なんてものは想像上の産物である。
あまりにも人間関係が希薄である。カルピスであったら完全に透明であり、それは最早、水である。どこまでも不透明な深海で、静寂の重圧のなかで、直立したかたちで沈み込んでいくような、そんな感触だ。
一方で、読書、ゲーム、ネットサーフィン、映画鑑賞、ワンパック目玉焼き、note執筆など、それなりに充実している。
そもそも、他人に時間を割くほど時間がないのだ。日曜日は朝から草枝刈りにトイレ、部屋掃除。新宿に行くか、本屋に行くかして、上記の行動で忙しいのだ。話している暇があったら、安倍公房を読破するべきだし、遊んでる暇があればnoteを書くべきだ。
で、あるからして、文字通り孤軍奮闘である。一人の人間からでてくるネタなど高が知れてる。しかし、どうしようもない。
厭世的というには軽薄で、孤高というには低俗である私はどうすればよいのか。このままでは何の進歩がなければ地獄行きであって、気が付けば年だけとり皺を増やし、体力を落とし、精力も衰え、路傍の石に撲殺されて消えてしまうに違いない。誰にも受け入れられず人知れず、露と一緒に、霧散してホームレスのジジィに吸い込まれて、終わりだ。
「孤独」という「元凶」知ったところで何もできない。
本当だろうか。
他人からネタを得るのではなく、他に方法はないか。
今、私の心象風景は水を打ったように、静謐を湛えている。そこには誰もいない。誰も答えてくれない。「書き方――」なんとかなんて読んでみただけで、書けるなら誰も苦労しない。カート・ヴォネガットは何も教えてくれない。三島由紀夫は厳しい顔をしながら腕を組んでいるだけだ。
「私の興味、興味、興味はなんだ。ネタの元はどこだ、どこだ、どこだ――」
ふう。
つまるところ「元凶」は、私という人間の至らなさ。頭の悪さに由来する怠惰なんだろう。とはいえ、書ける、書き続けるからには「才能」があると信じて文字を連ねるしかないのではないか。
「書きあぐねる」の向こう側を見るまで、ただ、ひたすら。
と、結局、何ひとつ解決しないままに、「現状維持」という結論に至るのがこれまでパターンである。それを打破してこそ、明日以降へと繋がるというもの。
と、いうわけで「打破」する方法なぞいくらも浮かばないので、週末の予定を公開して終わりにしたいと思う。
まず、明日は仕事帰りに「丸善の津田沼店」へ行って、帰宅し掃除して洗濯して酒を呑む。日曜日は気合をいれて草枝刈りを行い、靴を買いにいく。
アディダスの『スタンスミス』、Vansの『オールドスクール』を買う。しめて1万8千円也。定額減税でいくらか手取りが増えたので、無問題。
午後はひたすら読書、そしてnote執筆。
はぁ。大したことないね。何が公開か。これで終われるというのか。そもそもこの記事は何の意味があるのか。
無いね。
これっぽちも。
この記事こそ、
「書きあぐねる現況の、元凶」の具現化である。
読者の余暇の時間を無為に奪う、大罪を犯す。生産性の欠片もなく、とくに面白いわけでもない、ただ思考をぶちまけただけの、愚考に裏打ちされた、愚行の権化。
それも、ここまで書けば立派なものだと、無理矢理に自惚れて深更に身を委ねて、暗闇の小径で自問自答しようと思う。
「お前さん、やる気はあるのかい」
「ええ、ありますとも。金持ちになってイイ女を抱いて、ブランド服や高額な貴重な古着を買いあさって、書籍を大量に買って、豪華なホテルで優雅に過ごし、美味いモノを毎日のように鱈腹貪って、ちやほやされて調子のって、千駄ヶ谷あたりに家を建てて、この世の春を謳歌したいです」
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