海へ行きたい。
海開きもそう遠くない六月の半ば。季節外れの暑さに汗じんわり、Tシャツは汗臭く、不快指数が上昇のカーブを描いている。短めの梅雨が通り過ぎ、夏になってしまう。
強烈な日差しが肌に突き刺さり、木の葉の緑が瑞々しく青を湛え、日光を反射する。体は熱くなり汗は止めどなく、屋内の冷気をもってしても中々汗が引かない。そんな季節、夏、真夏。夏休み。
夏といえば、海。
青と白のマーブルは鮮烈であり、緑と潮のにおいが鼻を掠め、白い砂浜と透明な海の小波、水着の男女、家族の背中。海の家では、焼きそばやラーメン、海鮮の浜焼き、ビールにコーラ。風鈴の軽やかで爽やかな音色。音楽はきっと、サザンオールスターズとTUBEでいいだろう。
我が思い出の海は、既に悠久の彼方。浜の香りすら忘れた今、魂が海を欲している。
「海へ行きたい」
こんな簡単な願いが私にとって、高いハードルである現実。
何故か。
夏の海は、家族連れと、若者と、恋人同士、また、友達同士のモノだからです。マトモで活き活きとした、滞りなく設えられた、輝かしい人生を歩く人にこそふさわしい場所と季節。
友人、恋人、家族が過去の遺物となった38歳のおっさんが、単独で闖入してはいけないのだ。完全な不審者である。泳ぐ気はないから、Tシャツに短パンでサンダルで、キャップを被り、いくらかふら付いて、貝殻なぞ拾ってみては浅瀬の岩場で、蟹やなんかを捕まえる。海の家で、焼きそばとビールを注文する。
「あの人、一人かな」
こう思われたら世界は軋んで、瓦解して、吹き飛んでしまう。
誰も見てないとか、自意識過剰であるとか、神経過敏でしょうだなんて健常者の正論は理解しているんです。が、しかし、そんな思いを抱えながら海へ行ったとしても、満喫することなく帰りの電車に揺られるは必定。
虚しさしか残らず、水に濡れない海水浴など、御免こうむりたい。
ならば、比較的、浜に近い飲食店で海鮮丼でも食べたらどうか。
いや。その店には家族連れや、恋人同士がやってくる。そこに、おっさんが独りで海鮮を食んでいたら、異常である。周辺の店ですら、夏の海に浸食されている。屹度、手早く完食し、店を後にすることになるだろう。
海へ行く。
こんな簡単なことが、あまりも難しすぎて梅雨ですよ。
この「海へ行きたい」との切望の正体は何か。
これは、「社会に参加したい」という当然の欲求である。群れから、また、人生のレールからも外れた身であるからこそ、顔のない人々が群れる煌めく空間に入りたい。空気を感じたい。自分が他者から受け入れられるに足る人間であると、確認したい。自認したい―――
―――そんな粗暴な感傷が、この切望を生んだのだ。と、同時に自分にその資格がないのではという自虐という名の遁走は、雨後のナメクジが壁を這うような、情けなさが滴り落ち、枕を濡らす。
このままでは、クーラーが効いた室内で、
安倍公房、三島由紀夫、町田康、アンディ・ウィアー、リルケ、平山夢明、カート・ヴォネガット・ジュニア、アントニー・バージェス、ロバート・A・ハインライン、森見登美彦、筒井康隆、チャック・パラニューク、西村賢太、藤澤淸造、田中英光。
それらをただ読み耽っては、ゲームやネットサーフィン、宅飲みで終わってしまう。
唯一の思い出が、墓参りになってしまう。
ここで一つ思いついた秘策がある。
「人がこない海へ行って、磯の香りを感じ、一番近い店で海鮮とビール」
これだ。
人気のない海辺。プライベートビーチ。逍遥していたら、自殺願望と勘違いされ、声かけされる恐れのある、そんな海を探す。
つまるところ、潮の香りさえ感じ取れさえすれば、任務完了なのだ。
自分だけの海を感じて、夏の残置物が心に遊弋する心地よい感傷にひたりながら、帰りの電車に揺られる。夕間暮れとオレンジが差す電車内。
いいかもしれない。
海へ行けそうだ。悠久の彼方に閉じ込められた、あの、希望に満ちた感覚が還ってくるかもしれない。
今からGoogle先生にご教授願い、念入りにリサーチして、今年こそは夏の思い出をつくる。
「海へ行った」という事実を手中に収める。それによって自己肯定感が高まった暁には、きっと、実りある秋を迎えることができるだろう。
仏壇の前に飾っていたカーネーションは枯れ、父親の缶コーヒーは新しいものに変えて、新しい靴も買った。あと、二足かう。アディダスのスタンスミスとVansのオールドスクール。
時が移ろうとしている。予感が忍び寄る気配がする。
そして、もう、酒(ビール)が呑みたい。アテはワンパック目玉焼きと、良さげなカニカマ、生ハムで。
さようなら。また明日、会いましょう。