無題

「無題」は矛盾した言葉だ。題が無いなら、空白のはずである。だから何だと言われたら、そこまでだが、思ってしまったのだから、仕方がない。さて、何故かようなタイトルにしたのか。決して、「ネタが無いから」などという不埒な理由ではない。中原中也全詩集の中に、「無題」という詩があり、たまたまそれを読んだから。これが理由である。
 そして書くことがなくなった。これはネタ切れを告白したわけでなく、最早、無題という題名に弄る要素が無くなってしまったからだ。この文章には論旨も趣旨もなく、苦し紛れに捻りだしているだけの、吐しゃ物である。
 読者諸氏はパソコンを前にして、頭が真っ白になっている人間の脳内で起きていることを、お分かりだろうか。
 この世には数え切れないほどの事象、事物が存在し、人生が千年あっても書ききれないほどのネタに溢れているはずだ。とすれば何故、「ネタ切れ」などという現象に見舞われるのか。苦し紛れにまとめサイトや、ユーチューブを観てみても、何も引っ掛からない。しかし書かなくてはいけない。
 だが、書けない。真っ白な空間を透明になって遊弋するが如し無能感、肛門の括約筋が限界突破寸前、自分の才能の乏しさに、希望は消え入りそうになる。冷房と、扇風機の音と、テレビの音がぼやけた脳を震わせる。書けないオジサンはただのオジサンであり、書けたとしてもオジサンである。
 弱ってられない夏だから、今年もやります愛車無料点検。生きれば生きるほど、生ビールは美味い。脈絡など、意味など無視したこの文章をどこまでつづける気か。まともにネタを発見し、まともに構成し、書ききり、推敲して投稿したいのに、それが出来ない。こんな日は、酒でも飲んで忘れたい。されども金が勿体ない。コンビニに行くことさえ億劫。
 頭が真っ白というより、「雑念でいっぱい」の間違いではないか。だとして、私に何が出来るというのか。そんなこんなが、書けない時の、人間の脳内である。本来、常日頃からネタ作りに勤しんで、「さて、今日はコレにするか」と迷いなく書くべきだ。しかし、問題がある。あらかじめ考えてからいざ書こうとすると、つまらなくなってしまう。面倒臭い性格だ。
 もっと、肩の力を抜きたい。
 もっと、人が喜ぶ文章を書きたい。
 もっと、本を集中して読めるようになりたい。
 もっと、トイレのウォシュレットをフル活用したい。
 もっと、もっとと私は何故に、向上心を鬱勃とさせるか。停止している余裕がない為だ。危機感が危機にかわり、危機が転落とつづき、底辺に頭をうって狂いたくないからだ。正気を維持して、人生を完走したい。そんなところで、この文章も完走とす。無味乾燥、無知蒙昧、無理難題な本稿のタイトルは「無題」。土台なき人生の荒野を行く37歳の行く末は、奈落が極楽か。蛇足を切り刻んで、奈落へ捨て、極楽浄土にいざ往かん。

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