これだけで十分なのに
いつからか憑りつかれた、こんなsentence。
日夜夢中にさせてくれる。
理由なんて野暮さ、オレに問うなよ。
それよりもこんなきっかけ、
ありがとうな。
バイトまだやってん?
ほんまちゃんと食えてん?
ってお前こそどやねん。
何を気にしてんねん。
「ほんまやりたいことやれてんのか」
と、いうことで、
BASIさんの『これだけで十分なのに(BASI REMIX)』から引用して、本日の記事を始めてみました。
ほんま、ええ曲やから、原曲のTOCCHIさんの『それだけで十分なのに』も併せて聞いてみてほしいです。
んで、何書くのか。
今週末から来月末まで毎週、トマス・ピンチョンの作品を買って揃える予定とか。いい加減、スマホに買い替えないと1年5カ月くらいで3G終わるとか。次回、駒込の『BOOKS青いカバ』に行く時は、「六義園で茶をしばきながら、買った古書を読む!』なんてことは、
また別の機会でいいとして、
で、何書くん?
どないすんねん。
ノープランか?
あかんではないか。
取り留めのない阿呆である。
これはフリートーク。
いや、
「フリー・ライティング」
需要あんのこれ。
とりあえず良し悪しは度外視して止まらず書いてみるしかない。末期的に「書くこと」が浮かばず、見つからない現状を打破するために書く、書く。 そして書く。
心のハウスダストを吐き出すが如くスピード感で、「巧く書こう」「よく思われたい」「モテたい」「金がほしい」「遠くへ行きたい」「近くで寝たい」「走って転んでじゃんけんポン」などの邪念を払いたい。
邪念は簡単に消えなかった。消せる類の性質でなく、心の奥から突きだしたヤツなので受け入れるしかない。それを開き直りといえばその通りだが、それぐらい開陳しなくては、
物書きの端くれの繊維の一本よりも心もとない分子一つにも満たない原子でしかないナノレベルの私が、私の文章が、何の価値があるというのか。
虚無の叫び。
やべぇ、何もない。
結局、何を書きたいのか。
その問いは、
「人生は何の為にあるのか」と同じぐらい不毛な自問である。
「生きているから、生きる。書くから、書くだけである」
意味がありそうなことを書き、文字数を稼ぐ始末では、何とも、如何ともしがたく、どうしようもなく遣る瀬無くやるせなす(お笑いコンビの名)。
「お前ほんま。
舐めとったらしばくぞアホンダラ。
ええわ、どついたるわ」
どうすんのコレ。ここ最近で一番ひどい。
ノープランで文章書くとか正気の沙汰じゃない。
何がフリー・ライティングか。
自由と自分勝手を混同している。
闇の中手探りで、ひとつひとつ、火を足元に灯すような作業。その火はすぐに消え、振り返っても何もなく、前を向けば心騒めく静謐を帯びし虚空が広がるのみ。
そこを『創作の煉獄』と、私が呼んでいる。
煉獄とはカトリック教会の教義で、この世の命の終わりと天国との間に多くの人が経ると教えられる清めの期間である。
『カトリック教会のカテキズム』では、「神の恵みと神との親しい交わりとを保ったまま死んで、永遠の救いは保証されているものの、天国の喜びにあずかるために必要な聖性を得るように浄化(清め)の苦しみを受ける人々の状態」と説明する。
ざっくり言えば、
「カトリックの教義で、小罪を犯した死者の霊魂が天国に入る前に火によって罪の浄化を受けるとされる場所、およびその状態。天国と地獄の間にあるという」
煉獄。
私は天国と地獄の間で浄化されているのか。
どちらかといえば、不浄な状態に汚染されている気分である。
ふと、思考が迷子。
原因は当然ながら、ノープランで書くという愚行。
この世は諸行無常仏滅の刃。
あっちこっち伸びたり縮んだりきりきり舞いのふざけたムード。
絶妙に七転八倒、その場しのぎ行き当たりバッサリお役御免。
観念しろ。
この文章はもう手の施しのようがないことを。
ぶっとい動脈がスッパリいかれてる断面に指を突っ込んで、「これで止血できないかな?」とか、のたまっているのと同じ。
恍惚の後悔に突き動かされ無情なデスロードをゆく、風前の灯火の幽鬼は千年同じことを繰り返している。希望の兆しはなく、あとは風にもってかれて、どこか湿った奈落に沈み腐泥の一縷と化すのみ。
とどのつまり、
もう、
終われということだ。
明日はどうにかなると信じて、
八十八ヶ所巡礼の『紫光』を聴きながら深更に突入する、
私は真夜中中年決死隊の隊長です。
辞任します。
もう読書とネットサーフィンして寝ます。
また明日です。
すべてを望んでしまう私を含めた、どうしようもない困ったちゃんへ。
「これだけで十分なのに。エイッ」