夜食

 この街は人間の欲望と怠惰をぶちまけたサラダボウル。
 住人たちは一様に警戒心が強く、何かしらの商売を営み、警官はヌードルが好き。昼から酒をあおり、どこからともなく怒声が聞こえ、吐いた唾が乾く前に小便がされる始末。
 そんな街の深更。
 暗闇を照らす色とりどりのネオンと、違法に繋がれた猥雑な電線と、血管のように配管の設えれたビルとビルの隙間。
 そこに人影があった。
 この街に越してきたばかりのマスオは、やっとの思いでみつけた工場の仕事の帰り、ふらふらとしていた。居心地の悪い安アパートメントに帰るのは厭だった。とにかく暗く湿っていて壁は薄く、闘牛を放ったら建物が倒壊する恐れすらあった。もう少し綺麗な街で暮らしたかったが、どうも整然とした世界は性に合わなかった。
 かといって明確な人生計画はなく、安い飯と酒、少しのギャンブルと映画と文学、稀に女を買う。
 それらが、この街にはすべて揃っていた。
 幾分か生活にも慣れ、行きつけの飲食店がひとつできた。
 中華菜房『ビルマ』の看板が見えてきた。
 ショッキングピンクのネオンがちかちか点滅、店先に常連のホームレス風の白髪のおっさんが酔いつぶれている。それを跨ぎ店に入ると、若い頃ミャンマーへ旅行に行ったことがある、六十過ぎの店主が鍋を振るっている。
 その横で奥さんが、蒸し鶏、くらげ、キュウリを刻み皿に盛って甘酢をかけていた。
 マスオがカウンター席の真ん中に座ると、三つあるテーブル席の団体客が勘定を慌ただしく済ませて退店。カウンターの一番奥にひとり、常連客の高齢女性いるだけで、ひと時、閑散とした雰囲気が流れた。
 黒いドレス、やや崩れた髪のセット。派手な赤のマニキュアで、冷菜三点盛りをつまみながら、紹興酒をちびちびしている。
 マスオは同じ冷菜三点盛りと、回鍋肉と水餃子スープ、黄酒とビールを注文し完成を待つ。
 ふと、天井を見ると、長年の蓄積か黄色がかっており、酒と同じ色をしていた。壊れかけたテレビには、ニュースが流れていた。
 或る国で軍事クーデターがおきてるらしいが、
 しったこっちゃない。
 こちとら回鍋肉だ。
 皮付きの塊を蒸した豚肉、蒜苗(ソンミョウ・葉ニンニク)、長ネギを、唐辛子やピーシェン豆板醤などで炒めたやつ。
 豚肉のゼラチン質が甘いし美味い。葉ニンニクに香りがやってきて、辛味がガツンとくる。そこにビールと黄酒。至福。
 水餃子が八個はいったスープはあっさりとした味付けで、回鍋肉の辛さを和らげてくれる。体が、酒とスープで温まり、冷菜三点盛りにも箸が伸びる。
 マスオは酔いがまわり、あっという間にすべて平らげてしまった。
 すると、外から雨音と共に酔客が入ってくる。
 これは面倒だと、マスオはさっさと勘定を済ませようとする。
 店主が、
「ここの生活は慣れたかい?」
「そこそこには」
「ギャンブルはそこそこにして、うちで金を落としてくれよ」
「そうっすねぇ」
 マスオは愛想笑いで「じゃあ、また」と店をでた。
 膨れた腹と温まった体に、冷たい雨の粒が次々と打ちつける。
 弱まる様子もないなか、マスオは走る。帰りたくもない安アパートメントを目指し、走る。細くうねって、毛細血管のような小道が縦横無尽に走り、建物からは光がぼんやりと漏れている。
 これからの人生、どうしたものかと雨音のなか思案する。
 駆け抜ける夜道で、思考はぼやけていく。
 浅い微睡みに考えが沈む。
 月は厚い黒雲に埋もれて見えない。
 口腔には、まだガチ中華。
「考えるのはよそう」
 気づけば自宅アパートメント。
 カチリと乾いた鍵の開く音。
 閉まる音。
 マスオは明日が休みであることを思い出した。
「もう一軒いくか」
 踵を返し、深更の街に消えるころには、先々への不安は心の片隅に引っ込んでいた。
 良くも悪くも。
 
 
 

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