雨の涙
絶え間ない雨滴がアスファルトを打ちつけ、ビルとビルの隙間の小路は洪水のようになっていた。
長身で背広の男は壁を背に、体を窄めていた。血の付いた包丁の切先を、スーツ姿の刑事に向けた。
その瞬間、刑事の男は引き金をひき、銃声とともに背広の男の手のひらに風穴があいた。包丁は乾いた音をたて、地面に転がった。背広の男は腰を落とし、刑事が見下す形になった。その顔は断崖絶壁の岩肌のように、厳しい表情を湛えている。
「手こずらせるな、ガラクタが」
背広の男の風穴からは、人工筋線維や破損した金属の骨が見えていた。
雨滴はさらに勢いを増し、髪がおりて目を隠す形になった。
「刑事さん、彼女はしっかり死にましたか」
刑事は、足を突き出し、背広の男の顔面を蹴飛ばし、懐から手錠をだして手早くかける。
髪と髪の隙間からのぞく眼が、刑事の顔を見上げる。
「私はジャンクヤード行きですか」
「それは裁判で決まることだ。俺の仕事じゃない」
ビルとビルの隙間の向こうの通りには、パトカーのサイレンが鳴り響いている。
背広の男の思考「回路」には、彼女との記憶が走馬灯のように駆け巡っていた。街で彷徨っていたところを拾われ、家に転がり込み、仕事をみつけ、ただ、日常を過ごしていたこと。
暮らしがそこにあったことが。
「立て」刑事の言葉が残響し、微睡み、正しく意味を理解したところで、ふと、自由への渇望が首を擡げた。自分がつくられたモノである事実を分かった上で、ひとつの命として、生きてみたいとの欲求。
それは、プログラミングなのか、人工知能の働きの帰結か、自分はそもそも「個」として存在していると言えるのか。思考が堂々巡りをする。
背広の男は言った。
「私が出荷されたのは五年前だ。主人の家を脱走したのは一年前。私を扱き使い、時折、いたぶって拷問を楽しむような”人間”だった。従順に、言いつけ通りに仕えていたというのに。そういった記憶もあっさり消去されて、クラウドの虚空に消えるのだ。売却できる部品と、そうでないガラクタに選別され、雨の中の涙のように、無かったことにされる」
「それは厭だ――」
消え入るような言葉を捨て、背広の男は、すべてを受け入れるように降りしきる雨を浴び、手錠をかけられたまま駆け出した。
銃声が雨滴を貫き、
膝から転倒し、顔を打ちつける。それでも体を引きずり、ビルとビルの隙間から見える街の明かりを目指す。
けたたましい警告音をあげるドローン四機が滑空し、四方から金属製のワイヤーが伸び、背広の男を拘束する。力なく吊り上げられ、表情からは生気が失われた。
不思議なほど穏やかなその目は、消失を示す静謐があり、人工物の塊であるとの現実を見せつけていた。
刑事の男を尻目に、反対側のパトカーに運ばれていった。
仕留められた獣のように。
サイレンの音が遠ざかっていく。
曇天に、青い風穴が空く。光りが差す。
刑事は煙草に火をつけて、しばらく壁にもたれ、署から連絡が入り、その場をあとにした。