切手の値上げ 

 がーーーん。

 漫画の吹き出しの文字が音声を伴って私の口から出た。

 「2024年10月1日(火)から郵便料金が変わります。」
だとー、な、なぬーっ。しかも上がり方が半端ない。消費税増税に伴う値上がりを除けば、1994年手紙(定形郵便物25g以下)が62円から80円、通常ハガキが2017年52円から62円に上がったのを据え置いて維持してきた。今回はそれぞれ、84円が110円、63円が85円に、30%も一気にあがる。

 昨今の物価上昇に世間はひーひー言っている。もちろん私もひーひー言っているひとりではあるが以前から消費者としての消費額は世間の平均値より下回っているからそれほど影響はない。ひーひー言っているのは万年のことで、インカムが乏しいからにほかならない。
 外食はもともと滅多にしないし、コンビニでおにぎりの値段を見てぎょっとするが手にとることはない。コピーや公共料金の支払いに利用するぐらいで、コロナ禍時に自治体から配布されたQUOカードも残高がまだけっこうある。野菜の値上がりは現在ひとり暮らしの身、人参一本を使い切るのも時間がかかるので、まあよとしとしよう。交通費の値上げは痛いが、最寄りの駅までのバスは徒歩25分に差し替えがきく。たしかに余暇に使うお金は減ったが、子も巣立ち「我慢している」という感覚はない。

 そんなあなたのようにケチケチする人がいるからお金がまわらず経済が先細るのよと後ろ指さされても知ったこっちゃない。いや、知っている。そこが問題ではないことを!  

 政府の愚策を横に置いて消費行動の有無だけで断罪されたくはない。そして私の中にも矜持がある。資本主義・流通社会で淘汰される値札の「手ごろさ」に麻痺するのではなく、買いたたかれてはいけないものには有形無形問わず一銭を投じたい。

 つまり政治は大事です。日々の暮らしが政治と直結しているのはいわずもがな。わたくしごとはしゃかいのこと、しゃかいのことはわたくしごと。

 なので、政治を語るうえでも、わたくしごとの身の上に起きることを声に出すのは大切。ですよね。

 ということで昨今の物価上昇について語るならば、わたくしごとでいえば、食品や生活消耗品の値上がり以上にショッキングなのが、この、郵便料金の値上がりなのです。
 中小企業や個人事業のみなさんにとっても塵もつもれば山となる死活問題でしょうが、そうした「経営」問題ではなく、「心のよりどころ」問題について考えてみてもいただきたい。

 メッセージのやりとりなら、メールやメッセンジャーアプリで事足りる。事務連絡はもとより、いますぐ謝りたい、お礼を言いたい、だけれど電話で伝えるのは気恥ずかしい、相手の時間を「いま」奪ってしまうのも相手が何をしている最中なのかわからないので気が引ける。そんなときにはネット通信の利便性が才を放つ。タイミングが合えば、その場で返答がもらえ、取り越し苦労だったと安堵し、好印象を与え、そこから会話がはじまり、関係がより深まる……ことにもつながる。
 そしてなにより安価だ。決してゼロ円ではないけれど、使い方によっては限りなく無料だ。(と思わされる仕組みになっている。通信料それ自体は無料だが、これはこれで気を付けなければならない視点がある。ここでは話が広がり過ぎるのでまたの機会に)

 一方、ハガキや手紙でのやりとりには、ネット通信の気軽さ、手軽さはない。手元にハガキや便箋、封筒などがないとはじまらない。(市販のでなく裏紙などを利用して作成するにしても、だ)
 そのうえ、書いたり消したりが容易ではなく、下書きをして清書をする、よしんばその手間を省いたとしても書き損じの場合の対処が必要となってくる。大切な相手へ差し出す一筆なら、二重線や修正テープは失礼だ。新しい便箋に書き直す、ハガキの場合なら郵便局へ出向き、5円の手数料を支払い、新たなハガキをもらう。絵葉書の場合は目を瞑り、それも愛嬌とかたじけなく思いながら投函する。

 そこまで気合いを入れずとも、手紙やハガキを出すことを億劫がる人は多いだろう。しかし、受け取る側になれば、それを「面倒だ」とは思わず、誰もが嬉しく手にするだろう。 

 あ、いや、待てよ。これを書きながらつらい過去を思い出した。ある人からもらった手紙は郵便受けから出した瞬間、鼓動が早打ちした。宛名の私の名前がフルネームではなく、苗字だけだった。封書の裏の差出人も苗字だけ、しかも差出住所が書かれていない。何度もやりとりをしていた相手だけに、封を開ける前から、それは最後通達を意味していることは容易に想像できた。果して剃刀《かみそり》こそ入ってはいなかったが、綴られた文字によって心は切り刻まれた。

 なんの話だろう。ちがう、ちがう。そんな例は千に一つぐらいなもので、自分宛のハガキや手紙を喜ばぬ人はいないだろう。私もご多分に漏れず、そうしたなかの一人だ。落ち込んでいるときには励まされ、相手の近況に一喜一憂し、時間をかけて行き来する文通には、瞬時に言葉が届くネット通信では得られない味わいがある。

 もらった手紙は束ねて保管し、たまにひも解いて読み返すこともある。古いアルバムを繰るように、封のなかから便箋を取り出し、再び読み出すと、そのときの光景が立ち現れる。時を経たからこそ触れられる差出人の思いの底にはっとする。いまは亡き人からのそれは尚更にしみじみと心に染み入る。

 通信形態が変わって久しく、めっきり手紙を出す機会も減ったとはいえ、私は周囲にも筆まめな方だと知られている。
 便りを出すから便りを受け取ることができるのだという図式も成り立つ。インカムが少ないのでこうしたちょっとした値上げがジャブのように効いてくるのは目に見えている。
 本稿冒頭の「がーーーん」というリアクションはそこからきている。ビンボー人から楽しみを奪っちゃあ困りますよ、っとに、もう!

 それでも私はこうつぶやくでしょう。

 二度とない人生だから
 一ぺんでも多く便りをしよう
 返事はかならず 書くことにしよう

 BY 坂村真民。
(他人《ひと》ん家のトイレに飾られるは、彼か相田みつをの詩と相場が決まっているの巻)

 暦の上ではとっくに秋ながら、残暑が長引き、身体に堪える日が続く。シートで買った切手がまだ何枚か残っているし、季節外れの残暑見舞い、出しても失礼にあたらぬだろうか。あの人、この人、その人に思いを馳せて、住所録を開けた。

 

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