映画『私は憎まない』

人が殺されることに喝采するとはいかなることか。

ハマースの最高指導者がイスラエル軍によって殺害された。
米国の副大統領 はこう言った。「正義が果たされ、アメリカ、イスラエル、そして、世界はより良くなった」
13年前、アルカイダの指導者を米軍が殺害した。
当時の米国大統領はこう言った。「数千人の罪のない男女、子どもを殺した責任者だ。彼の死は最大の成果だ」
6年前、オウム真理教の死刑囚が全員死刑を執行された。
ラジオニュースから流れて来たその報を聞き、ひとのよいおばあさんがこう言った。「あー、あの悪い人たちかい。時間がかかったね」

先日オンラインで視聴した講演会で紹介していた映画を観に行った。
私は憎まない』(I shall not hate)
現在カナダ在住のガザ出身医師のドキュメンタリー。
映画は2021年の彼の家族の里帰りを中心に、彼の生まれ育ちや悲劇に見舞われた瞬間やその後の様子を、当時のニュース映像や関係者へのインタビュー、そしてところどころにアニメーションをとりいれ綴っている。
エルサレムで平和活動家の両親のもとに生まれ育ったフランス系アメリカ人の監督による作品だ。

上映中何度も泣いた。何度も胸が苦しくなった。何度も彼が口にする「憎しまない」の意味することを考えた。
娘3人と姪1人をイスラエル軍の爆撃で亡くし、映画のラストは2024年のガザの様子が映し出され、そこに彼の妹の嘆き悲しむ声が憔悴した表情とともに流される。そして2023年10月7日以降で23名の親族が殺されたとテロップが出され、生前の写真が被る。(その後も先日の講演会のなかの報告によると、10月上旬彼が来日中も被害があり、のべ50名の親族が殺されている)

今回は【映画の感想】としては書けない。
それはまだ、いまこの瞬間も続いているリアルな惨状が舞台だから。
そして遠く離れた場所からリアルには感じられない私たちが、安易に「憎しまない」という言葉だけをとって論じるのは大変危険だとさえ思うから。
ただし、映画を観てみればわかる。
彼に怒りはあることを。加害者への謝罪を求め続けるのもその表れだ。
姉妹が殺されたとき、右目と右手に大けがを負ったもううひとりの娘が、やがて成人し、イスラエル政府を相手取って父親が提訴した裁判の記者会見で「怒りはないのか?」と聞かれてこう答える。「このような闘いをし続けなければならないというこの状況に怒っている。被害者が正義を訴えねばならないということに」

しかし、誰かを憎むことはしない。
憎しみからは何も生まれない。この使い古された言葉をどれだけの人が心底実感し、そうではない道を進むために行動しつづけているだろうか。

これは鑑賞用の映画ではない。
憎しみの連鎖を断ち切る、そのひとりに加わるのかを問われている映画だ。そして、それは海の向こうの虐殺についてのことだけではない。

私は「悪人」は殺されて当然、万々歳とは思わないし、思えない。
悪行を続けられる座から素早く降りて欲しいと心底願うのみ。
願うだけでは弱すぎる。主権者ならばそれを行使できる。

今回、ここに個人名をひとつもあげなかったのは、
(殺害された人間も、声明を発表した要人も、映画の主人公も)
そうした思いからです。名前がある何者かが殺されて、それを当然の理とすることなど到底受け入れられない。そのことに呼応するひとは少なくないと思うからです。

"I shall not hate."
will でも do でもなく、shall のなかに、彼の強い、強い意志を感じる。
I (自分)だけではなく、People(人々)は、shall not  憎んではならないのだ、と聞こえてくる。
私は憎まない。というのは、起ったできごとを水に流すということでは毛頭ない。流せるはずがない。彼の身に起こったことがもし自分の身に起こったならばと、この映画を観る人は必然そう問いかけるだろう。そして、いともたやすく、自分ならできない、憎まずにはいられないと思うだろう。「彼」を雲の上の人間にしたてて英雄視する。しかし、それは「彼」が望んでいることとは全く異なるものだ。
繰り返しになるが、彼は怒らないわけではない。昨今の日本ではことさらに「怒り」を否定的にとらえる向きがある。自己の尊厳のために、また声をあげられない人たちのために闘っている姿を何やら大声をはりあげて怒ってばかりで怖い人と敬遠する。足を踏まれて「痛い」と声をあげることが、俯いて我慢している人の代わりに「踏んでいる足をどかせてください」と口に出すことが、なぜ非難されなければならないのだろう。

「怒り」を正のエネルギーに変えて、「憎しみ」の方向に向かわないために、あきらめずに平和を求めて行動しつづけること、それが、彼の言う
「私は憎まない」というメッセージだと受け取った。

憎しみのもとになる誰かをこの世から消し去って喝采することからは、平和は決して生まれない。どんな人も国家がその命を奪ってよいわけはないのだ。





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