【手紙文】バクシーシ放浪記 ネパール

 30年前にネパールから東京の両親へ宛てた手紙は、2年4ヶ月に渡るバックパッカー旅行の最終章、帰国のひと月半前に書いたもの。多少の加筆訂正を加えたその手紙とそれを書いたあとのエッセイは、バクシーシ放浪記の一部である。

~お父さん、お母さん、お元気ですか?
 便りのないのは元気な証拠と思っていてくれているでしょうか。筆マメな私がヨーロッパを出てからこれが初めての便りになるわけですが。
 昨日、ネパールはヒマラヤでの8泊9日 に及ぶトレッキングをやり終えて山を降り、ここポカラに戻ってきました。ヒマラヤといってもガイドもポーターも雇わず、最頂で3200メートルあたりまでの通常4泊5日初心者コースを倍の時間をかけ、のんびりと歩いてきたに過ぎず、危険な道を行ったわけではないので安心してください。
 カナリヤ諸島から出した手紙に「旅を続けることの意味」について書きましたが、西の世界から、インド、ネパールと東の世界に来て、また新たな気持ちで旅を楽しんでいます 。物質文化から精神文化への飛び込みとでもいいましょうか。 
 ここはお父さんからよく聞いている戦後の日本のようです。道端で目にする青空店の一つひとつが私には物珍しいけれど、きっとお父さんが見たら「懐かしい」と感じるのではないでしょうか。タイヤのチューブをゴム草履の裏につぎあてたり、へび使いやら何やらの口上が巧みな大道芸のおじさんがいたり。
 明日カトマンドゥヘ行き、3、4日滞在してインドはヴァラナシに戻り、タブラというインドの太鼓を習う予定です。
 話がそれてしまいました。それではネパールの山での日々について書き始めましょう。

 山を降りる最終日の朝、宿の窓からアンナプルナの雪山を、朝日に照らされて一刻一刻変わりゆく色や、かかる雲の流れとともにボーっと眺めていたら、「山を去る」ことへの感慨が一気に胸にはりつめ涙が出そうになりました 。
 旅が長く続くと変な風に旅馴れしてしまって、どこへ行っても「ここもまたその他のよくある町」にしか見えなくなり感動が薄れ、人との出会いや別れにも淡泊になってきてしまいます。しかし、今回は 、誰にとか何にという直接的なものに対してではなく、景色や人々の暮らしを含めた山の世界そのものとの別れに寂しさを感じ、涙目 になり、そんな自分自身にドッキリしました 。
 ゴラパニという場所に泊まった翌朝、早起きして片道40分の登り坂を白い息を吐きながら歩き到着したプーンヒルからの360度雪山の銀世界は想像を超えた美しさでした。スイスでも雪山を見ましたが、感動の度合いか違ったのは、そこまで自分の足で歩いたからでしょう。まあ、車でかなり上まで行き、さらにロープウェイに乗って頂上に着き、「ああキレイだね」と言って日帰りしたスイスで目にしたそれとでは違って当たり前ですよね。
 ポカラからローカルバスでナヤプールまで行き、そこから徒歩30分の道程のビレタンティに着いてトレッキングの許可証を見せて歩き出してからは、車の騒音や町の公害とはおさらばし、行き交う村の人々や馬の行列や、川の音に囲まれてゆっくりゆっくり歩みを進めていたのですから尚更です 。
 山で生活する人々の逞《たくま》しさを短期間の滞在ではありましたが見ることが出来たのは大きな収穫です。山の頂上から麓の方まで作られている棚田は圧巻でした。神(の存在を信じたとして)が創った山に、人間の手によって作られたものが、そんなに美しく寄り添って見 えるとは思いもしませんでした。
 山の村から村への「あし」となるのはまさしく自分の両足か、荷を乗せて歩く馬の足のみです。自分の体の倍もあるような大きな荷物を背負って山を登り下りしている姿は言葉 にするととても安っぽく聞こえてしまうかもしれませんが、感動的でさえありました 。
 ニュージーランドで行ったトレッキングと違ってここは国立公園の一部というわけではなく、そこで生活する人の土地にいわば入り込むわけで、こちらのマナーもより問われてきます。人の住まぬ管理された美しい自然を堪能しながら歩くのもそれはそれで楽しめますが、今回のようにそこに長く暮らしてきた人間の知恵や営みを見ながら歩くことのできるトレッキンクの方が私の心には残りました。
 田んぼでは耕運機など文明の力ではなく 、「お牛さま」の活躍が見られます。スピーディではないけれど、ゆっくり力強く耕していく様子を横目に見やって、こちらもゆっくりゆっくり前へ歩いていきました。
 お昼は農家の人が兼業でやっているお茶屋さんで食べるのですが、メニューはひとつしかなくダールバートという豆スープと野菜の付け合わせにごはんの定食です。11月がトレッキングのピークなので、2月の今は時期外れですから他のハイカーにはあまり会いませんでした。従ってお店の方も前もって食事を準備しておらず、私たちが店に着き注文してからごはんを炊いたり、場合によっては、「 ちょっと待っていて下さいね 」と裏山に山菜摘みに行き、採れたての菜を調理してくれるということになり、小一時間は待たされます。しかし、これが何ともいい時間なのです。米を研<音、火を焚き付ける音を聞きながら、ごろんと横になって流れゆく雲を眺め、お腹をゴロゴロ鳴らせ、いまかいまかと待ちわびて「どうぞ」と出された食事は、心から「いただきます」と手を合わせることが出来ます。
 これまでの旅の中で食べてきたどんなものよりもシンプルでおいしかったです。同じメニユーでも店によって味が違うので、同行者の三村さんと「さて今日のお味は」と楽しんでいました。
 歩いているときはシャツ一枚で平気なのですが、そうやって腰を下ろしお昼を待っているときに太陽が雲の中に入り込んでしまうと、急に冷え込みます。山の上にいると地上よりも太陽のありがたみがわかりますね。
 「太陽さん、ありがとう!」。
 そんな感覚を持つところも私と似ている三村さんは旅のベストパートナーです。彼はものごとをおもしろく見ることの天才です。
 その三村さんから私は「バクシーシミカ」とあだ名されました。バクシーシとはヒンドゥー語で喜捨を意味します。
 インドやネパールではこれまで旅した欧米の比ではなく道端にたくさんのホームレスの人がいます。ホームレスというと単に家のない人たちを指すのて正しい説明ではないのですが……。カースト制の最下層の人々である彼らは、道端で生まれ道端で育ち、そこで結婚し子を育て死んでいく人たちです。なので、仕事をなくしてとか何らかの理由でホームレスになっている欧米などの状況とは根本的に違います。
 ウィーンの地下道でボスニアの内戦を逃れて行き場を失ったホームレスの人たちから手を出されて胸を痛めたことを思い出します。お金をあげてしまえば自分の気も楽になり、頭の中でもやもやと混乱することもなかったでしょうが、いくばくかのお金をひょいと缶に投げ込むことは何だかとても上に立った者のすることのように思え、顔を緊張させ無言で彼らの前を通りすぎました。そのことをオーストリア人の友人に話すと、「そう考える方が偽善ではないのかな。寒空の下、靴下もなく裸足で凍えている彼らには、温かいスープをくれる人(きみ)が善意だとか憐れみの気持ちからとか、その理由なんて一切関係ない。根本的な解決にはならない、なんてこともだよ。彼らはただ一日生き延びるための小銭が欲しいだけなのだから」と、私の浅はかな思いを正されました。
 ここでも通りを歩いていると不具な人を見かけ、ガリガリにやせた子どもからはしつこく追い回され、どう対処してよいやら最初は悩みました。
 そして彼らが口にするのが「バクシーシ」という言葉なのです。
 「バクシーシ、バクシーシ、バクシーシだぞ」と半ば強制的に言われ、お金を与える側が今度は「バクシーシ、ありがとう」と応えるのです。つまり、富める者が病める者に対して施しをし、善をつくすことによって来世はひとつ上のカーストに生まれ変われると信じられているので、喜捨をさせてくれて、幸せにさせてくれて「ありがとう、バクシーシ」となるわけです。
 ここではウィーンで感じた「政府が何とかすべき」などという疑問は湧いてきません 。それを善し悪しで語るのは簡単ですが、そこにはそういったレベルでは言い尽くせない大きな川の流れが存在しているようにも思え、外国人がとやかく言えぬことなのです。
 話を私のあだ名についてに戻しますが、なぜ私が「バクシーシミカ」なのか。三村さん曰く、「ミカちゃんはどこででも生きていけるよ。皆がバクシーシしたくなるのだもの」だそうです。
 山でお昼を食べたあと、ふとお店の奥を覗くと家族の人も食事中でした。何やら粉を練ったものを丸めただんご状態のものを一口大の大きさにし、噛まずに一気に呑み込んでいます。近づいて「それは何ですか」と尋ねると、「ディロ」という名で言ってみればそばがきのようなものでした。お店に出されている、つまり私たちが口にしている白米は彼らにとっては贅沢なもののようで、日々の主食はそのディロだといいます。山歩きには腹持ちして力がつくよといって少し分けてくれました。
 そんな風に山の人たちは私に親切で、物だけではなくたくさんのバクシーシをもらいました。
 彼らの生活、食物、遊び、言葉、顔などの外見にはとても親近感が湧きます。ここでは私はネパール人かチベット人、もしくはブータン人に間違われます。肩のうねりのある彼らの踊りは朝鮮のものと似ているし、耳で聞くネパール語の音の抑揚は東北弁の雰囲気があります。お互いのことをダイ(お兄さん)、ディディ(お姉さん)と呼び合うのも、朝鮮のオッパ、オンニというのと一緒だし、村で つの家族という雰囲気が感じられるのも日本の田舎に似ています。
 国家単位で人を区別するバカバカしさは旅をしてきて実感しています。日本でだって北と南、山の人、海の人、町の人はそれぞれ違うし、合理的に「日本人」と総称しているだけにすぎなく、私が手紙でインド人がどうのと書くときもそういう意味なので誤解なきよう。ネパールも同様のことが言えます。カトマンドゥの人はヒマラヤに住む人とは異なっていることは口にするまでもありません。
 土の上も石段の上も、雪も雨も、泥の中も 、たった一週間のトレッキングでいろんな条件の中を歩くことになりました。あるときは村の中を通りながら、あるときは手付かずの森の中をおいしい空気をたくさん吸い、朝早くから8時間くらいかけて登ったり下ったりというきつい行程を決行したかと思えば、あるときは1時間だけで歩き終え、温泉につかってのんびり過ごしたり、変化に富んだ楽しく思い出深いトレッキングとなりました。
 同時に自分に対しての反省もたくさんありました。自然の美しいこの山々も近年の土地開発、人口増加にともなっての森林滅少が深刻な問題となってきていて、外国人トレッカーの起こす環境への影響も見逃せません。私もその点は気をつけ、あくまでそこに暮らす人の場所へお邪魔させてもらっているのだという謙虚さは失わずにと思っていたつもりです。が、つもりだけだったことに気 づかされたときは茫然としてしまいました。
 以前アメリカから出した手紙に環境問題について少し書きましたが、すっかりそのことから関心が離れてしまっていたようです。
 今回はニュージーランドのトレッキングと違い、食物から何から自分で持ち歩く必要はなかったので軽装で済みました。それをいいことに出したゴミは全て宿に置いてきてしまい、当然そのゴミの処理についても考えなければいけなかったわけで、自分で持って下山すべきでした。また、荷物になるのを避け、ダウンジャケットはレンタルせずに山に入ったため 、昼間は薄着で過ごせても、夜はかなり冷え込んで宿で焚いてもらった火にあたらねばなりませんでした。
 宿の家族の人さえ節約している薪を、たった二人の宿泊客である私たちのために使わせてしまったのです。寝袋くるまくり作戦に出て 、夜は8時前に早々と床に就く努力をしたり、「 マイクロハイドロエレクトリシティー」設立のための費用をカンパしたり、ちょっと良いことをした気になっていたのですが、結局薪を使っておきながらという前置きがあるわけで、これは本末転倒です。
 そしてまた、カメラについても思うことがありました。インドではあまりに強烈な日々の中で何も撮れずにいました。しかし、ネパールの山を歩き、素朴な暮らしに感動し「撮っておきたい」という衝動から機織りをしていたお婆さんにカメラを向け、ひどく怒られはっとしました。改めて、ひとにカメラを向けるという無神経な行為に慣らされている自分を恥じました。
 旅をして、人や風景に魅了され、その地に同化した気になっても、それはあくまで私から見た勘違いであり、私自身が第三者であることに変わりはなく、2年以上も旅を続けてきたというのに、まだまだスナフキンの域までは達せずにいます。

 長々と書き緞ったわりに脈絡のない手紙になってしまいました。今回はネパールの山の 美しさと人々の明るさ、たくましさを伝えたいとペンをとったものの、旅の終わりにさしかかり、その行為そのものを考えるとあっけらかんとした報告は出来ませんでした。つまり「欲望」の方向性というのか、どこまで見続け、歩き続けるのかの判断を私はどうやってつけたらいいのかわからず、手紙の内容がその「迷い」中心になってしまったようです。
 インドへ戻ってからまたお便りします。どうぞお元気で~ 

 山から降りてくるとポカラの村も大きな町に思えてくる。さらにカトマンドゥヘ着くと その大きさや人混みに酔い、山の村で子どもたちと「 ♬シンシーメー、パニマー、ジャンベマン、カルサアキ、ジンダガニマー」と流行歌を一緒に歌って踊った時間が懐かしく、また貴重なものに思えてくる。   カトマンドゥの空気の悪さは最悪で、ロスやデリーの比ではない。街行く地元の人は皆工事現場で働く人がするような大きなマスクをするか、もしくは口にハンカチをあてたまま歩いている。盆地なので車(ディーゼル車や単車)の排気ガスがたまってよそへ逃げないのだ。ポカラからカトマンドゥへ向かう道中のナガラコットの高台に登ってカトマンドゥの街を見下ろすと 、見事にそこだけ灰色になっているのがわかる。
 カトマンドゥはこれが同じネパールかというほど華やかにレストランや商店で賑わっていた。若いネパール人の男性は髪を伸ばし、西洋人のヒッピーとつるんでいたり、街の中で聞こえる音楽もネパール民謡でなく、60-70年代のアメリカンロックが中心で、売っている服にしたって西洋人好みの品ばかり。また、一般家庭に冷蔵庫など普及していない場所で冷えたビールを飲もうなどという気はおきてこないと思うのだが、欲する人たちのための店はわんさとある。
 観光が第一の産業となっているこの国で、一般市民が自分たちの暮らしと目の前で法外な値段で売られている物とをはっきり別な世界と区分けしていられるものだろうか。まして私のような小娘がそういう所て食べたり買ったりする行為は彼らにどのように映っているのだろう。
 インドのカジュラホで田園風景のなか気持ちよく自転車で走っていると、農作業をしていたおばさんに「私のように働かなきゃダメだよ、あんた」と言われたことを思い出す。労働せずにプラプラしていることを、そのときやカトマンドゥにいるときほど後ろめたく感じたことはない。そういえば、スペインでは「働かざる者、恋をするな」と言うと聞いたことがあったっけ。
 「山に帰りたいですね。」
 三村さんとそう言葉を交わした晩、カトマンドゥいち賑わっているというライブハウス へ二人して出掛けた。客のほとんどは西洋人 ツーリストだ。久しぶりのそういう場に私は思いっきりはじけ、狂ったように踊りまくってしまった。
 宿に帰る道すがら、
 「自分で情けなるぐらい周りの環境に左右される人間なんだなってつくづく恥ずかしくなるな。車も電気もない山の生活が本来の人間の生活ではないかなんてえらそーによく言えたものだよ。はー、私って一生このままなのかな」
 と、ひとり言ともつかぬ言葉を呟くと、三村 さんは相変わらずのニコニコ顔で「ミカちゃんはそれでいいんじゃない?」と言ってくれた 。
 ポカラで出会った最初に何をしているのかと聞かれ、会社を辞めて日本を出てから旅をし続けているから風来坊で職なしだと答えると、「へえ、旅人かあ、いいね。旅人はどこへ行っても大事にされるものね」と言う三村さんの反応は、からかわれているのか真面目にそう思っているのかわからなかったけれど、彼の言葉通りであったらいいなという風に思うようになった。
 旅への疑問を感じ、ツーリズムの悪を思い 、さらにそこへ加担している自分に矛盾を感じていたが、「旅人が幸せを運ぶ」ことを信じることが出来たら、そんな旅が出来たら幸福だと思う。
 「それでいいのだ、バクシーシミカは」という彼の言葉をいまは素直に喜んで受け取るとしよう。

 ================================

  30年後の2024年の秋、これを読み返し、昨今のネパールの自然災害に胸を痛ませている。
 そして、三村さんに名付けられたあだ名通りの来し方を振り返り苦笑う。「これでいいのだ!」とおちゃらけるわけにも、開き直るわけにもいかない。せめて受けた恩を返してからあの世にいきたい。

いいなと思ったら応援しよう!