【詩《うた》う】100年と1年
わたしたちは知らない
知っている気になっているだけで
真実はなにかを知らない
知らないのに
知った気になって
知っている部分だけで
事象を断罪するのは
ちゃんちゃらおかしい
わたし「たち」の
構成要員はさまざまだ
そのなかに
限りなく真実に迫ったことを
知っている人もいる
彼らの仕事ぶりには頭が下がる
しかし
総じて「わたしたち」と言う時
声の大きな人が先導を切る
その声に押され
知らない人たちも
「そうだ、そうだ」と続いていく
「そうかなー、でも、わからないなー」と
いう声はまだ良い方で
それも時間の問題
おのずとかき消されて行く
残った言葉は
真実のありようなど
どうでもよい
ように響く
わたしたちの
「知る」は
どこから来ているだろうか
どこへ向かっているのだろうか
声なき声を
拾い
集め
いまにつながる
糸を
いまを生きる人たちと
編み
あした生まれくる人たちに
身を守り心を温めるものとして
受け渡したい
その
ひとつとして
昨日は、関東大震災から101年の日
今日は
明日は
その”混乱”のさなかを利用して
それまでの恐怖や憎悪や偏見や差別が
薄ら笑いを浮かべて
朝鮮人を
中国人を
社会主義者を
障がい者を
殺してもよい命と軽視し
関東一円で
虐殺があった日
から
101年
政府主導の真相究明はいまだなされず
全貌は見えない
しかしながら
「知る」ことをあきらめない人たちによって
新しく「知る」ことがある
わたしたちにかどうかはわからない
少なくとも
わたしには
あった
101年前に
無残に殺された人たちへの
追悼は
「知る」ことを
手放さないこと
9月1日の”記念日”だけに
振り返るのではなく
日々のなかで