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荒れ果てた日々は今を支えています。
荒れ果てていたというのは、すさんでいたという言葉の方があっているだろうか。思春期の体験を思い出した。思春期は、多かれ少なかれみんないろいろな変化と向き合う時期にくる。それはとても自然な発達段階ともいえる。
ちなみに目に見えて優等生だったわたしの表現のしかたは、内にこもるというもの。外側に一切見えないようにして、自分をかくして、ひたすら自分の内側にひきこもっていた、大人なんてくそくらえと思いながら。爆発しかける自分のエネルギーを内側に込めるとなると、それは身体症状につながり、自律神経がまずはじめにやられ、わたしの髪の毛はぬけた。
仕方がないから、髪の毛のない部分を隠し、部活と勉強に没頭した。でも定期的に「もう限界」がくる。でも学校を休むということができない子どもだった。いかねばならぬ学校に。って思っていた。保健室に逃げ込んだこともあった。話を聞いてもらいたくなくて、大人に話しかけられてもだんまりを決め込んだ。だれもわたしの味方じゃないし、わたしのことを分かってくれる人はこの世に居ないと思っていた。
定期的におとずれる限界にわたしはどんどんすいこまれていき、長いトンネルに入ったような気分を中学生の時から感じた。このまま大人になっていっても全然楽しみなことはない。自分の性格は変わらないし、ずっと鬱々して生きてくのだ。自分はそういう人生を歩むのだ。そんなことを考える、見た目明るい心は暗い青年になっていく。
高校生になっても、体調はすぐれず、心も不安定なので見かねた親が病院に連れて行ってくれ、治療をし、薬を飲んで身体が落ち着くのをただ祈りながら学校に行った。本当に無理なときは保健室で勉強した。とにかく自分が安心できる場所がなかったからずっと不安定な心とともにいた。
周りが優等生ばかりの高校だったので、勉強と部活はそこそこがんばれた。刺激をうけていたし、これで勉強も部活もできなくなったら自分は終わるという信念をなぜか持ち、がんばった。
そう、わたしの強みは、しんどくても勉強と部活だけは辞めなかったこと。
これは、周りの支えや、刺激的な仲間がいたことによるものだ。
心がいったん落ち着いたのは、大学生になったとき。
自分の選択で動けることを実感し、いったん治療を終えられるほど、復活した。
とはいえ、思春期のほとんどは精神的にやられっぱなしで自己肯定感が育っていないことに気づく。人の心理に興味があったので、自分に起きていることも、大学の図書館で本を読んでコツコツ調べた。どうしてこういう気持ちがうまれるのか、自分のことをもっと知りたかったから。客観的なエビデンスのある資料を読んでいくと、自分の身に何が起こっていたか理解でき、ちょっと安心したのを覚えている。自分を知りたくて、いっぱい本を読んだ。
心のしんどさを言語化するのはとても難しいと感じる。心は目に見えない。だから何かで表現しないと伝わらない。そして、経験した人にしか分からないことも正直ある。
あのとき、内側にこもりつづけ、心臓病かもしれないと言われるほど、心拍数が高くなり、動機に悩み続けたことも、髪の毛が抜けて最悪な気持ちになったことも、眠れなかった日々も、死にたいと思い続けた日々も、ちゃんと今につながっている。だから今がんばれという話ではない。こうやって道はつながっているよっていう話。