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純文学ガール|ショートショート
書店員。僕はこのバイトを辞めたいと思っている。
一つ、指先傷だらけ。紙の暴力。
一つ、重労働が辛い。紙束っていうのは意外と重い。
一つ、社員がムカつく。
上の二つはそれでもおまけみたいなものだ。問題なのはこれ、「社員がムカつく」。陰口、パワハラに始まり、セクハラなんかもしているからどうしようもない。先週カオリちゃんが辞めたのもそのせいだ。
モンスター・社員、ハゲで臭くて、三食カップ麺、洗濯は三日に一回。永遠の独身。恋人なし。そうに決まっている。
「これ、やっといて!」
止めどなく溢れて僕の脳内を駆け回る社員への嫌悪感、そのループを突き破るように酒焼けしたようなダミ声が飛んできて僕は顔を上げた。視線の先には細められた吊り目を僕に向ける社員。彼の節っぽい指が示しているのは新着コミックの山だ。「これ、やっといて」つまり、ビニールカバーを付けろということだろう。
「あ、はい」
僕は溜息を殺しながら遠ざかっていくモンスターを見送った。彼の気配が完全に消えるとホッと胸をなで下ろしている自分がいる。今日は嫌味を言われなかったので少しラッキーだ。そう思いつつ、僕はモンスターの命令を一人反芻して振り返った。そこに見えるのは赤とか黄色のケバい表紙。そして『彼女は大学を辞めたい』の文字。僕はしまったと思った。今夜締め切りのレポートをまだ一文字も書いていない。
僕は再び肺に空気を取り入れ、溜息と共に胸のつかえ感を吐き出した。カバーかけは今すぐじゃなくても大丈夫だろう。これ以上この閉鎖空間に一人でいたら前々から僕の脳みそを占拠している「奴のいやらしい吊り目」と今新たに加わった「レポートヤバい」が僕の脳みそを完全に支配してしまって、本当に気が狂うかもしれない。
僕はバックヤードの扉を押した。白い明かりが出迎える。整然と並ぶ本棚と、そこに張り付いて立ち読みする客。ちょっと視線を上げれば、何かを探しているのか、ぐるぐると同じ辺りを行ったり来たりする者も目に付く。レジ前は長蛇の列だ。駅中の書店の宿命だろう。
僕はそんな代わり映えのしない光景を尻目に本棚の整理をはじめる。視界の端にレジを打つカオリちゃんがいたのは先週までの話。
カオリちゃん。シフトがかぶった時に少し話をするくらいだったけど、可愛いくて良い子だった。今はどこで何をやっているだろうか。また別の書店でバイトをしているのか。いや、カフェ店員なんかも似合いそうだ。あの長い髪を一つにまとめて、コーヒーと一緒にスマイルなんかもくれたりして。そっか、もういないのだ。なんだか胸が騒いで寂しい。
そうやってぼんやりと考え事をしていると、ふと斜め前で宙を漂う赤に目が留まった。三秒くらい見ていると僕の脳みそはそれが頭髪だと認識する。その赤の持ち主、身長二メートル近い超ノッポの赤髪の男はくるくると表情を変えながら小声で何かを話している。誰と話しているのかはここからでは見えない。外国人だろうか。あんな目鼻立ちの人、どこの人だろう。暫く前に読んだSFミステリーの登場人物に赤毛の人がいたような気がする。確か酒場の主人だ。最後の方で敵側に寝返るんだよな。モンスターに襲われた自分の娘を主人公が見捨てたことに腹を立ててさ。実在したらあんな感じだろうか。
すっかり変わった風貌の男に夢中になっていた僕は突然背後から声をかけられて文字通り飛び上がった。
「は、はい!?」
飛び上がった僕を見ても眉一つ動かさないその人は綺麗な黒髪を長く伸ばした女性だ。カオリちゃん似の猫目で結構美人。『潮騒』とか『伊豆の踊子』とか読んでそう。純文学ガールって感じ。あとは意外とミステリー好きだったりして。
ここで彼女が片眉をつり上げたので、僕は自分がガン見してしまっていることに気づいた。
「えーっと、何かお探しですか?」
「あの、薄い本を探しているんですけど……」
え、なんて……?
おかしい。僕の耳はとうとう腐ってしまったのだろうか。薄い本っていうのは当然あの薄い本だよな?ど、から始まるあれ。
僕が呆けて突っ立っていても、女性は微動だにしない。それどころか真っ直ぐに僕を見つめてくる。ちょっと怖い。カオリちゃんの目でそんな風に見られると緊張するし、同時になぜだか責められている気になるから気味悪い。
僕は少々お待ちくださいと、ぎりぎり上擦らない声を発するとそそくさとレジカウンターに向かった。ちゃんと聞き返せば良かったなんて今更思うけど。
で、レジコーナの端でモニターを見ながら僕は安堵なのか驚きなのか、よくわからない感情を処理できずに、唖然とした。見つけてしまった。『薄い本』というタイトルのエッセイ。
僕の視界がワントーン暗くなり、びびりながら目を向けるとあの赤毛の男が目の前に立っている。彼の顔を見て何か言わなければと防衛本能に急かされた僕は、さっき慌てて掻き込んだ梅おにぎり一個分のエネルギーを全部使ってやっと一言絞り出した。
「H、Hello ?」
「薄い本あった?」
赤毛の男には日本語でぱっと返される。
―僕のおにぎり返せよ!
―この赤毛、女性の連れなのかよ!
どっちを言おうか迷って、どっちも言わないほうが良さそうだと気づいたので僕は黙って本を渡した。
『薄い本』を手に入れた女性は「こんなのの何が良いんだろう」とか言いながら去って行く。それに続く赤毛の台詞はこうだ。「任務だから仕方ないさぁ。あいつが読むんじゃねぇの?」そして女性は、「あのジャックが?」と食い気味に疑問を呈す。
なんだ。別に女性は『薄い本』が読みたかったわけではないのか。
遠ざかる二人の背中を眺めていると、なぜだか急に全てが馬鹿らしくなってきた。壊れかけの不安定なハート、カオリちゃんがいなくなって穴の空いたハートなんてこんなちょっとしたことでガタッと傾いてイカれる。
あーあ。もう全部やになっちゃった。
レジに背を向け、僕は客の視線を浴びながらせかせかとバックヤードに向かった。そんな行動自体僕はもう正気じゃないのかもしれない。気がおかしくなったのでレポートが出来ませんでしたというのは教授に聞き入れてもらえるだろうか。いや、あの関口のことだ。絶対に許してくれないだろう。
「サイトウ君!終わったか?」
激突しそうになって慌てて足踏みする。
「いえ、まだです」
「綺麗な女性がいないと作業できない?」
「いえ、そんなことないです。今からやります」
僕は大嫌いな社員がまだなにか言いかけるのを無視して通り過ぎ、さっさとバックヤードに入った。パイプ椅子に腰を下ろしたところで急に頭痛がしてきて、頭を抱える。そして直ぐ、見覚えのあるピンク色のブックカバーがロッカーの下からのぞいているのに気がついた。ドキリと胸が鳴る。
「なんでこんなところに。カオリちゃんの忘れ物?」
手に取ってみる。タイトルは例によって『薄い本』。押し花の可愛いしおりが挟んであるのでそこを開いてみる。
『君が助けてくれるんじゃないか。そう信じてたのにダメだった。本当は君に助けて欲しかった』
なんだよこれ。
僕が悪いの?僕があのモンスターから、カオリちゃんを助けてあげられなかったから。僕はびびりだから。
ごめんなさい、カオリちゃん。僕は好きな人も守れない弱虫なんだ。
涙が溢れてきて僕はたまらず嗚咽を漏らした。
もうだめだ。やっぱりこんなところ、さっさと辞めよう。
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