「頑張ってないくせに、泣く人」に思うこと
わたしは、「頑張ってないくせに、合唱コンで泣く人」が、とにかく大嫌いだった。
いや、あんた頑張ってないでしょ?ほとんど口開けてなかったでしょ?なんで泣けるの?と苛立ってしまう。
頑張ってない人になんて、思い出を美化する資格なんてない。美しい思い出を抱いていいのは、真剣に取り組んだ人だけだ。やらないならやらないで、大人しく手を引け。
でも、その人が頑張ってないって、誰が決めるんだろうね。
わたしにとっての「口開けてないやん」が彼女の「精一杯の口開けてます」かもしれないし、「意見も言ってないやん」が彼女の「話を必死に聞いててその通りだと思った」かもしれないし。
「態度で示せよ」って思うけど、本当は既に態度で示してるのかもだし。
指導者やリーダーって、「頑張ってない」が見たら分かるつもりになってそう。学校の先生とか、上司とか。そりゃ、組織を鼓舞する立場としては、「頑張れよ!」って言うのが仕事なんだろうけど。でも、頑張ってるのに頑張れよって言われたら病むよ?
大学時代のサークルで、リーダーが、1年生のエース的立ち位置だった子に「それでいいって思っとん?あんたが引っ張らんと。正直、●●の方が良かったよ」って全員の前で叱責してたことがある。結局、その子は、当時のリーダーの卒業まで、サークルに姿を見せなかった。
組織の成長には1人1人の成長が不可欠なんだろうけど、一方的に頑張ってないと決めつけることへの暴力性もあるよね。それに、いくら頑張っても運が悪ければ頑張りが活かされない。表面化しない。想像しないと見えない頑張りだってあるのかもしれない。
あとは、頑張れなかったから悔しい、という目線もあるんじゃないかと。
小説だったかnoteだったか忘れたが、「最後の大会、もっと日ごろから真面目に取り組んでおけば、負けた時に素直に悔しがれたんだろう。真面目にやってなかったから、それができなくて何かしんどい」的なお話を見たことがある。
「いや、不完全燃焼になるって分かってたら、後悔する前に日ごろから頑張れよ?」が正論の回答だろうけど、まあメンタル的にそれができなかったり、他のことが忙しかったりしたら、難しいよね。何か1つのことを頑張ることでも難しいのに、マルチタスクになったら優先順位決めないときついよね。そりゃ手抜いちゃうよね。
頑張ってるように見えない場合も、ちゃんと頑張れない場合も、考えられるのは分かった。分かったけれど、それでも目に見えて頑張ってる人が報われてほしいと思うのはエゴでしょうか。
自分は死ぬ気で取り組んだのに、何もやってなさそうだった人がいの一番に泣いてたら、心に冷たいものを感じずにいられますでしょうか。
小さな頑張りを拾ってあげる、ちゃんと頑張れない人のメンタルサポートもする、それができたら一番良いのだろうけど、自分のことで必死で手が回らずに助けてあげられなかったことなんて果たして責められることでしょうか。
頑張りなんて人それぞれって、理性では分かってるんだけどね。
ごめんなさい、今でも「頑張ってないくせに、合唱コンで泣く人」を認める気持ちになれないんです。おおらかな心を持てたらな。