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恋をするのが怖かった。
わたしの存在意義は、誰かにとっての利用価値。
そんな悲しい信念を持つわたしは、恋をするのが怖かった。
他人よりも「べき」信念が強くて、自分の感情なんて押し殺してしまえば丸く収まるって、ずっと思っていた。
マイナスを受け入れる優しさこそ、わたしが得意な優しさだと思っていた。
誰もやりたくない委員長を押し付けられても、
クラスの身勝手な子のご機嫌取り係をやらされても、
サークルで進行役とか日程調整とか面倒な役ばかり残されても、
要領の悪さとかポンコツさを馬鹿にされても、
仕事相手の尻ぬぐいをやる羽目になってしまっても、
ずっとヘラヘラニコニコしてた。文句は言うけど。
自分のターンの可能性があっても、それを手放すことしか考えてなかった。
クラスマッチの競技は、余った枠しかもらわなかった。
吹奏楽部のソロパートは、他の子にあげた。
仲良くなりたい人がいても向こうがその気じゃなければ身を引いたし、
友達が旅行の話をしていても「わたしとも行こうよ」なんて負担になる可能性が1mmでもある発言は絶対にしなかった。
絶対に、自分は他の人より壊れにくいって自信がある。
だから、汚れ役は全部わたしが引き受けるべきなんだと。
合唱コンでピアノを弾ける人は、ピアノの席に座ることになる。
それと同じで、壊れにくいわたしは、汚れ役に座ることになるのだと。
その結果、誰かの生活が輝くのならば、それが本望だと思っていた。
恋愛もそうだった。
恋愛すること自体、相手に多大なご負担をおかけすることになる。
周りだって、汚れ役のわたしが恋をすることなんて期待してなくて、「下に見れる役」でいてほしいんだろうなって思ってた。
↓大学4年生の時に書いた記事がこちら
だから、まず恋自体しないように心を押し殺すことしか考えないし、
恋をしてしまっても、絶対に「付き合いたい」「近づきたい」なんて発想は持たないし、避けるようになってしまうだけだった。
そんな話を友達にしても、大学の後輩にしても、職場の先輩にしても、誰1人として分かってくれなかったし、「自分の気持ちに素直に生きれば?」と呆れられるだけだった。そりゃそうだよねー。
さて、何でこんな記事を書くに至ったか。
最近、仲の良い友人に告白されてしまった。
タイミングが夜ご飯帰りで実は結構お腹痛くて、そうとも知らず頭回らなさすぎるわたしを見かねて「返事は考えといて!」で家に帰されて、現在保留にしている状態。
その友人は一緒にいて楽しいし、落ち着くし、いいんだけど、、、
何を隠そう、お付き合いのステップに進むのがとにかく怖すぎる。
自分の心を殺すこと・マイナスを受け入れ続けることに特化したわたしは、自分の気持ちをぶつける・プラスを与えるようなあの多幸感のフィールドに立てるのだろうか。それができなくて、相手を絶望させてしまったりしないだろうか。未知の扉を覗いて、足がすくんでいる気分だ。
それに、周りから見たわたしの利用価値が下がっちゃわないだろうか、と(多分他の人から見るとどうでも良いポイントを)気にしてしまっている。わたしが幸せになれば、周りが不幸になる。都合よく見下せる奴がいなくなったり、時間等も気にせずに愚痴のはけ口にできる奴がいなくなる、そう思われるんだろうな。大したダメージも受けずに汚れ役を引き受けられるわたしが、その役をぶん投げても良いのだろうか。
仕事でお世話になった上司が、以前別の案件でかけてくださった声が聞こえる。
「あなたとしてはどうしたいの?」
「やったことないからやるんだよ」
「べき」信念の強い心からはわがままなんてまだ浮かんでこないけれども、どうしようかなと迷えているから、タイトルは過去形で投稿します。
(あとで恥ずかしくなってひっそり消すかもしれません、、、)