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言葉はいつも薄っぺらい

 何度目の惨敗か。

 先週水曜、「SNSで知り合ったオタ友と初めて会う友人」に同行した。分かりづらくて申し訳ない。私と友人とオタ友が初顔合わせした、と言い換えても差し支えは無い。昼間ということもあり、場所は秋葉原の某ファミレス。

 全員『ラブライブ!』が好きと言うことで、ラブライブの話題が大半だった。


 私は自分の好きを上手く伝えられなかった。


 例えば、指定難病により役の降板が発表されたばかりの楠木ともりさん。noteには実に5000字以上も使い、彼女の魅力や自分の想いを書き連ねた。

 長い。長すぎる。試しに全文を音読したら9分40秒かかった(ほとんど巻くように早口だったにもかかわらず)。推しへの想いの強さを伝えるのに、長く書くのは“ずるい”と考えることも出来る。簡潔に、かつ的確にまとめたほうが相手に伝わりやすいはずなのである。

1.熱い想いも口頭で話すと薄っぺらくなる

 何が言いたいかと言うと、他者に口頭で魅力を伝える時間は僅かしか取れない。9分どころか1分すら許されないのが普通である。では私は初対面のオタ友に、楠木さんの魅力をどうやって伝えたのか。


「可愛いし歌上手いし、ソロ曲は作詞も作曲もしているのが凄いんですよ。また名曲が多いんですよ。特に『アカトキ』と『タルヒ』」 


 ………


 ええええええええええ(我ながらドン引き)

 あの5000字超えの熱い記事は何なのかと問い詰めたくなるくらい、話が薄っぺらい。


 分かっている。私は元々、人と話すのは大の苦手。それでも緊張が解けると調子の良い時はある。ただし、調子よく話している時は大体「陽キャの会話みたいに言葉が薄っぺらい」現象が起きてしまう。それが上記の時だった。

「可愛い」「上手い」「凄い」「名曲」……どの言葉も薄っぺらい。「本当にファンなのか?」と疑われても反論できないレベル。

 これはあくまでも一例で、他にもノリと勢いで突っ走ったり、盛り上げようと話を盛ったり適当な事を言ったりと、いずれも私の望む話し方ではない。望んでいないのに、無意識に口から出てしまうのである。そして「ノリ」「勢い」「盛る」「適当」な言葉たちは大概「軽い」「薄っぺらい」のである。言葉に深みが無い。深い話が出来ない。


 そういえば5月の歓送迎会でも私は「軽い」「薄っぺらい」発言を連発し反省していた。ただ、他の参加者も「薄っぺらい」言葉しか発していなかったように思う。


2.薄っぺらい文章しか書けなかったあの頃

 私は36年の人生で、「話すトレーニング」も、何なら「書くトレーニング」だってほとんどしてこなかった。

 2008年(22歳)から2020年(34歳)まで書いていたブログをざっと読み返す。文体がマシになったのはいつからか。


 例えば2008年に投稿した『ドラえもん』の魅力を書いた文章が↓こちら。既に社会人になっているが、文章はまだ薄っぺらい。

多くの人はドラえもんを小学生あたりで卒業するが、
大人になってまた観始めて懐かしむ人も多いのである。

ドラえもん役の水田わさびを始め声優陣は一新されたものの、本編はほとんど昔懐かしい原作の話で、
大山のぶ代時代のドラえもんで既に制作されたもののリメイクとなっている。
だから懐かしいのである。

中学生以上でドラえもんを観ている人は、おそらく笑われる。
しかし、人に言わずに隠してさえいれば、中学生であろうが大人であろうが何の躊躇いもなく純粋に楽しめる。

今回観た「ジャイアンズをぶっとばせ」なんて少し感動した。

毎日学校終わりの児童館で一人ドラえもんの漫画を読んでいた小学生時代を思い出した(マテ

2008.8.25のブログ記事より


 4年後の2012年(26歳)。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の感想記事が↓こちら。まだ酷い。酷すぎる。

期待していたものとは違った。
当方の唯一の希望が……

(中略)

破の考察で「旧劇からのループ説」を読んだ時は鳥肌が立った。
世間は単なるリメイクだと思っているが、実は旧から続いてる大長編ストーリー。
そして今回こそは皆が幸せになれる大団円ENDになる。
その説がQで消滅した可能性が出てきたのだ。

しかも、破のポジティブシンジとはうってかわって終始鬱展開。
完結編で軌道修正し大団円になる希望も残されているが
当初完結編はQと同時公開のはずが
2013年公開に先延ばしになり
今ではそれすら未定になってしまった模様(公式サイトから公開年が消えています)。

一体何年後になるんですか?
流石にモヤモヤが消えない今回はせめて来年じゃないと待てないのだが。

2012.12.1のブログ記事より


 さらに時は流れ、2016年(30歳)でやっと↓これくらいのレベルの文章を書けるようになる。『四月は君の嘘』の魅力について書いた記事である。

 かをりが難病を抱えるなどシリアス成分が物語の大半を占め、作中に頻発するポエム調のモノローグなどが独特の世界観を作り出したことも人気の理由と言える。

(中略)

 公生とかをりは互いを名前ではなく「君(きみ)」と呼び合うことで、恋人でも友達でも無い独特の関係であることを表現していた。もちろん名前を知らないのではなく“あえて”君という呼称を連発するのだ。対して公生に片想いを寄せる澤部椿は一貫して「コウセイ」と呼ぶ為、公生との距離がかをりと椿で異なることも明確に表している。(中略)そのような呼び方へのこだわりも魅力の一つだと思っていた。

2016.6.8のブログ記事より

 三十路になってようやく文章に少し深みが出てきた程度なのである。

 こんな感じの文章をもっと前から書けていれば今頃は……後悔が絶えない36の夜。


3.言葉は本来「美しい」はず

 2020年にnoteを開設してから、この2年でようやく「書くトレーニング」を少しずつしてきたようなものである。いただいたスキの数が指標になったり、時には厳しい意見のコメントもいただいたことで書き方を見直すきっかけにもなった。それでもまだまだである。

 書くことさえまだ微妙なのに、対面一発勝負の「口頭会話」で上手に話せるわけが無い。分かっている。分かっているのだ。それなのに、薄っぺらい言葉ばかり発してしまう自分がもどかしい。


 面白いものをそのまま「オモシロイ」と表現すると陳腐に感じる。

 凄い人をそのまま「スゴイ」と表現すると陳腐に感じる。

 感動した話をそのまま「カンドウシタ」と表現すると陳腐に感じる。


相座凪「有馬先生は好きな人いないんですか?」

有馬公生「いないよ」

凪「嘘です。いるって顔に書いてある。どんな人なんですか?」

公生「そんなはずないよ。だってその人は、僕の友達を好きな女の子なんだ」

凪「それって諦める理由になるんですか? 愛より友情ですか。



  ――陳腐です」

『四月は君の嘘』16話(アニメ版)より


「愛より友情」――確かにその言葉は“陳腐”。

 言葉はいつだって陳腐で薄っぺらい。


 しかし、言葉は本来「美しい」ものではないのか。


 説明するまでもなく、『四月は君の嘘』は美しい言葉を多用している。
 だからこそ「愛より友情」という表現の薄っぺらさが目立ち、それが逆に味のあるシーンになっている。

 言葉のせいにしてはならない。言葉を使う人間の技量の問題だ。

 そう信じて、少しでも美しい言葉を今後は使い続けたい。

 書く時も、口頭でも。

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