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「 死 」 の概念が変わった時
人が死ぬ時
人には2つの死が訪れる
あれは私が高校生の時
大学受験のために通っていた学習塾で
私はその貴重な体験をした
今でも鮮明に覚えていて
その後の私の「死」という概念がとても大きく変わることになった
国語の授業の時だった
現代文のとある問題
もう作者や作品名はすっかり忘れてしまっていて
覚えていない
その問題は 死 について書かれていたものだった
人間には2つの死が訪れる
そんな内容だった
私はなんて重たい議題の文なんだろう
読むの嫌だな、、、と正直思ってしまっていた
しかし、問題を解くためには文章を読まなければいけない
しぶしぶ、読み始めた
人間には2つの死が訪れる
一つ目は生命の死
二つ目は社会的な死だ
そんな書き出し
社会的な死?社会的な死って何だ?
私は読み進める
人間はまず、心臓が止まれば生命の死が訪れる
でも、その人はまだ死んではいない
なぜなら、その人のことを知っている人達がその人が死んだという事を認識しなければ
その人はまだ生きていると思われているからだ
つまり人間は生命の死が訪れてから、全ての人々に死んだと認識された時、本当に死ぬ
とても衝撃を受けた
確かに言われてみればその通りだ
例えば、行方不明の人がいたとして
その人は居なくなってすぐに亡くなっていたとしても
それを誰も知らなかったら、その人はまだ生きていることになる
行方不明の人のご遺体が発見された時
それが報道されればみんなが知ることとなり
その人に社会的な死が訪れる
そこでその人は本当の死を迎えるのだ
私の 死 に対する概念が大きく変わったきっかけだった
なぜ、今こんなことを思い出したのかというと
先日ある手紙が家に届いたからだ
もう何年も前に亡くなった祖母宛の
健康食品会社からの商品の案内状だった
私を含めた家族全員、そして近所の人々
祖母の友人や福祉施設、病院の医療従事者の人々
もうほとんどの人に祖母の死は知られていて
祖母は完全に社会的な死が訪れていたのだと思っていた
でも、まだ祖母は生きていた
少なくともこの健康食品会社の人々は
祖母が生きていると思っているから
案内状を送ったのだ
祖母はまだ生きている
そう思ったら
嬉しくて、涙が出た
両親が共働きだったから
私を育ててくれたのは祖母だった
祖母にはまだ完全に死が訪れていない
そう思うと、亡くなったはずの祖母が近くにいるような
そんな気がしてきた
いつまでこの手紙が届くのかは分からないけれど
それまでは、祖母はまだ生きている
今度の休みになったら
しばらくやっていなかった洋裁をやろう
生前、祖母にみっちり教えこまれた洋服作り
私の成長ぶりを喜んでくれるのか
はたまた進歩していないと怒られてしまうのかは分からないけれど
祖母が生きているうちに渾身の力を込めた一着を
作り上げたいと思う