山田金一物語:第11章:金一のその後の生活そして事故死
向洋町にある失業対策事務所は大規模であったが、土方工事の時代は過ぎ、事務所は移転縮小された。
縮小されたといっても事務係は必要である。
工事は関与しなかったが
少ない事務員の帳簿を計算するだけなので、閑職である。
長らく港湾課に勤務していた金一も、鬱病が酷くなり、港湾課の職務が全う出来ないと判断された。
そして、向洋町の失業対策事務所に転属させられた。
仕事は金一の得意とする事務だけなので、金一は職務を全うできた。
縮小された事務所にはお茶くみは必要ないので、明子は
解雇された。
自宅の市営住宅がある山の口町から向洋町までは至近距離なので、金一は明子の作った手弁当を携えて徒歩で通勤した。
剛からの一通の封書を受け取った。
それは、剛が本社にどうしても還れないので許して下さい、という文面であった。
金一は精一杯美しい字で返事を書いた。
通常、親が子を呼ぶ場合、「お前」と書くが、金一は
「君」と書いた。
「君の人生は親のものではない。君が決めた人生、悔いの無いようしっかり道を歩んで下さい。君の足元をしっかり見つめて。」
そこには父親としての精一杯の愛情が込められていた。
返信を受け取った剛は涙を流した。
その後、金一は淡々と失業対策事務所の事務をこなした。
しばらく月日が経過した。
事務所からの仕事帰りに、歩いて桜幼稚園にさしかかった。
そして、その先の国道を渡ろうとした。
その時、1台のバイクが猛スピードで突っ込んできた。
運動神経抜群の金一にとって
それを避けるのは簡単なはずであったが、鬱病で意識が少なく、判断に迷った。
バイクを避けきれず、激突した。
若者が運転していた。
国立下関病院が至近距離にあったので、急遽搬送された。
頭部打撲、意識不明の重症であった。
明子から連絡を受けた剛は
羽田空港から板付(福岡)空港の空路をとり、そこからタクシーで駆けつけた。
金一は意識不明であったが、目はしっかりと見開いており、口をもぐもぐさせて、何か言いたげであった。
そんな様子から、主治医は
「これは心配無い、きっと回復する。」と説明した。
明子と剛はその言葉に安心したが、状態は2週間変わらなかった。
そして、いつも通り、面会にいくと、
「深夜に亡くなられました。」という信じられない
言葉が明子と剛の耳にとびこんできた。
1974年(昭和49年)3月、誕生日を2日前に控えた死であった。
行年51歳
山田金一の波乱万丈の人生は
幕を閉じた。
山田金一物語 完