見出し画像

教育ママ奮闘記



私は早生まれの3月です。
小学生低学年の頃は、虚弱児の劣等生でした。
イジメにもあいましたね。
無理もありません、4月生まれとは約1年の開きがあるので、遅生まれは、同級生の中でも成績が良く、体力も優れています。

「教育ママ」という言葉は当時存在しなかったのですが、母は今で言うところの「教育ママ」だったのです。

「これからは、成績優秀な子どもが世に出て出世する。」
母はそう考えたようです。

家庭が貧しいにも関わらず、私を「家庭塾」に通わせてくれました。
先生はその家で、5〜6人の生徒を教えるのですが、他の子ども達は、皆お金持ちの家庭でした。
当時は塾は一部のエリート教育だったのですね。

私の成績はみるみるうちに上がり、小学校を卒業する頃は優等生に上りつめていました。

下関市立中学校に進んでも、塾通いは続き、1学年約700人中常にトップから50〜60番目程度をキープしていました。

中3の針路希望で県立一校を希望したのですが、父は合格が確実な県立二校にしろ、という勧めで
県立二校に受験しました。
今と違って、私立高校より県立高校のほうがレベルが高かったのです。
受験は軽くクリアしました。

高校生活は、取り立てて何もなく過ぎて行き、三年生ともなると、就職か大学進学か、針路を決定しなければなりません。


当時の大学進学率は、16%程度で、ほとんど高卒で就職していました。
早い人は中卒で就職でしたね。



父は「高卒で十分じゃ。」

その言葉に、母は猛反対しました。
「あんたは地主の長男で、旧制中学に入れてくれたじゃないの。旧制中学といえば昔のエリート校ですバイ。そのおかげで下関市役所の正職員までなれたじゃないのよ。これからは学歴社会ですバイ。散歩は絶対大学に行かせる。」

「わしの給料じゃ無理バイ、学費はどげんするとね。」

「学費は私が稼ぐたい。」

そう言って、母は唐戸のうどん屋で働き
学費を稼ぎだしてくれたのですね。
うどん屋は、朝から6時頃までの立ちっぱなしの接客業務で、かなりハードだったようですが、給料も良かったようです。
それに、母は美人で、客受けして、店も繁盛し、
うどん屋の主人もありがたがっていたようです。

三流私大とは言え、卒業すれば「学士様」です。
無事に就職できたのも「教育ママ」のおかげで、
今は亡き母を今も感謝しています。
勿論、私や母の意見を聞き、学費の協力をしてくれた父にも感謝しています。

ヘッダーにある、母の優しい眼差し
そして数々の母の恩。
私が極度のマザコンである理由が、ここにあるのですね。




                  完