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散歩の思い出:「赤間神宮の先帝祭」


源氏と平家の最後の闘い
「下関壇ノ浦の闘い」で破れた平家は
安徳天皇と警固する女官とともに
入水自殺したということです。

その霊を弔う為に建立されたのが、唐戸近くにある「赤間神宮」で、龍宮城をかたどったものとされています。

以下は小説でもなく、ネットでもない
下関の伝説となっているもので、真偽の程は定かではありません。


平家は馬関(ばかん:下関)の最北端の彦島に最後の陣地を設けました。
そこには残された戦闘員だけでなく、膨大な数の若い女官達が避難していたのですね。

平家は安徳天皇という旗頭を失い、全員戦死か自害して果てました。

残された女官達は、その日から生活に困りました。
女官達は高貴ゆえ、働くことが出来ないのですね。
女が手っ取り早く稼ぐには、身を売ることです。
女官達は売春婦に身を落としたのですね。
多くの女官達で、馬関は一大遊郭の地に発展して、ご贔屓衆にも恵まれ、大繁盛しました。

遊郭で最高位は「太夫」です。
そして、ご贔屓衆が音頭をとり、赤間神宮で年に一度、安徳天皇の命日に、在りし日の平家を偲ぶため、「先帝祭」の行事を始めたということです。
「先帝」は勿論、先の帝である安徳天皇のことですね。

赤間神宮の舞台を太夫がかつての上臈の艶やかな衣装で舞い、お付のものが従うものが起源となっているようです。




私は高校時代、友人と一緒に見物に行きました。
今でもその行事は続いているようです。
観光の少ない下関では、貴重な観光事業ですね。

平家の武者の亡霊に取り憑かれたという「耳なし芳一」の像も安置されています。


一説には、安徳天皇は、僅かな家臣と共に薩摩の離島に落ち延び、天寿を全うしたという話も有りますが、これはあくまでも、鹿児島のローカル説であり、メジャーではありません。




               完