よど号ハイジャック事件
1970年3月31日
卑劣な共産主義者同盟赤軍派による、よど号ハイジャック事件がおこりました。
私の就職先は、博多駅近くの設計コンサルタントに決定していましたが、正式な入社式は4月1日なので、まだ研修生としてアルバイトをしていました。
当時の道路公団の設計図は、ステッツラーのシャープペンで作図したもので、これはまだ成果品になる手前です。
そのシャープペンで書いた設計図にトレース用紙をあて、インキングトレースして初めて成果品として成立したわけです。
そのトレース作業は、社内ではこなせず、東京のトレース会社に一括外注していました。
道路公団の成果品には、納期があり、それに遅れると「指名停止」の厳しいペナルティが課せられていました。
指名停止を食らうと、会社の存続にも影響するという重大事件となります。
そして、よど号ハイジャック事件。
トレース成果品は、そのよど号に積まれているという報告が、航空会社から我が社に連絡が入りました。
会社内が騒然として来ました。
私も研修生としてその場にいました。
積荷が北朝鮮まで運ばれると、もう戻って来ません。
納期が迫っている為、設計をやり直す時間はありません。
よど号が板付空港に向けて飛んでいく姿がはっきりと会社から見えました。
部長は
「あゝ、成果品が飛んで行く。」と
叫び声をあげ嘆きました。
よど号が視界から消えた数時間後、羽田空港から会社に連絡が入りました。
「貴社の図面がよど号に積まれていたという書類がありましたが、申し訳ございません、こちらの手違いで、その便に積み忘れました。次の便でお送りいたします。」
という内容だったようです。
そして、次の便で、無事に成果品は到着し、会社員は胸を撫で下ろしました。
喜びの万歳が一斉にあがったのですが、私以外
誰一人として、よど号の人質の心配をする人は
いませんでした。
まぁ、世の中、そんな物かも知れませんね。
翌日の4月1日に、無事入社式が行なわれました。
ほとんどが団塊の世代で、小さなコンサルタント会社にも関わらず、新入社員の人数は50人程度だったと記憶しています。
完