可愛い子には旅をさせよ。
私が小学5年生の頃、下関から大分の昔のおじいちゃんの実家に夏休みに遊びに行きました。
今では考えられない事ですが、当時は「可愛い子には旅をさせよ」という教育方針で、子どもの一人旅が多かったのですね。
大分の実家の場所は今ではよく覚えていません。
ただ、東京に出てからも、本籍は大分に置いてあったので、地名だけは覚えています。
「大分県宇佐郡大字別府町」
この別府は別府温泉ではなく、「べふ」または「びゅう」という呼び名のようです。(記憶が定かでは無い)
その後、町村合併で、宇佐市に統合されたので、今では検索できません。
とにかく特急が止まらないローカル駅なので、各駅停車に乗り換えたと思います。
下関から小倉まで行き、鹿児島本線だと思ったのですが、とにかく2回乗り換えました。
これは小学生にとって、かなり困難な旅です。
手弁当、お土産、地図帳、汽車の時刻表をリュックに詰めて小学生の一人旅。
今から考えると、親もよく旅に出したものだと思います。
そんな時代だったのですね。
今のような不審者や危険人物もいなかったのです。
汽車がおじいちゃんの駅に着くと、おじいちゃんの実家は歩いてかなり距離があったのですが、実家は農地改革前は大豪農だったので、道を尋ねると、町の人達は親切に道案内してくれました。
実家に到着すると、おじいちゃんやおばあちゃんは大喜びして歓待してくれました。
実家は海から遠いので、魚は食べられなかったのですが、鶏や豚を飼育していたので、当時贅沢な卵料理はふんだんに食べられました。
時々、鶏を締めて、鶏肉料理をご馳走してくれました。
池には鯉を飼っていたので、それを一日井戸水で泥抜きして、鯉のあらいや鯉こく(鯉の味噌汁)をご馳走してくれました。
昼間はおじいちゃんは農作業で、私も手伝いました。
手伝うと言っても小学生では農作業は出来るはずも無く、そこら辺に生えている雑草を抜くだけですけれどね。
それも、30分もやっていると、おじいちゃんは、
「そこのレンゲ畑で寝転がるなり日向ぼっこするなりして遊んどけ。」
という具合で、小学生の労働はまぁ、お手伝い以下のお遊びでしたね。
完