山田金一余話:「棒高跳び」
余話は思いつきで書いているので、年代順ではない。
下関市営陸上競技場が近くにあったので、金一は体力作りに、事務所が休みの間に通った。
市民には、使用申込み書に記入するだけで、無料で、自由に使用出来た。
1週400mトラックや走り幅跳び、走り高跳び、棒高跳びの設備まで整っていた。
金一は棒高跳びの名手であった。
当時の棒高跳びのポールの材料は竹である。
長い竹竿を買い、竹竿の端にテープを巻いただけの物が道具である。
竹竿を前方上方向に抱えて
全力疾走し、バーの手前の箱にポールの先端が届く瞬間、
箱に先端を突き刺し、反動で身体が空中に浮く。
そして、バーの真下で逆立ちをして、腕を思い切り伸ばすと、身体がバーを超える。
その瞬間、ポールを突き放す。
全部、自分の体力である。
ポールが着地する砂場の方向に倒れると、失格となる。
ポールは必ずトラック方向に倒さなければならない。
絶大な体力と運動神経が必要である。
金一は、棒高跳びの名手として山口県下で3本の指に入る程の実力者で、勿論、コーチの役もこなした。
その時は、剛が中学生の頃で、明子と剛は、金一の晴れ姿を見物したものである。
ところが、すでにその頃は
ポールの材質はグラスファイバーの時代となっていた。
グラスファイバーは良くしなり、その反発力で跳ぶものだから、竹に比べて、桁違いに高く跳べる。
しかし、金一は、グラスファイバーを良しとしなかった。
「あんな道具の反発力を利用して跳ぶのは棒高跳びとは言えん。あくまで自分の力で跳ぶのが棒高跳びじゃ。」
しかし、これは金一の時代錯誤とも言える発言である。
ルール上、ポールの材質としてグラスファイバーの使用は認められているので、競技では高く跳んだ方が、勝ちなのである。
時代遅れは去るのみ。
金一は、棒高跳びの世界から足を引いた。
この余話 終わり