山田金一物語余話:「宗一郎と金一の和解」
山田家は大地主であったが、
1946年〜1948年にわたるGHQの農地改革法により、ほとんどの土地を小作人に摂られ、わずかな土地しか残されていなかった。
地主制度は崩壊した。
長男の金一は家出していたものの、残された11人弟妹の生活は成り立たなくなった。
次男の銀次以下、男は博多、下関、大阪、東京に働きに出た。
娘達は、安心院などの他地区の農家に嫁入りした。
宗一郎とふみは幼子を抱えて生活しなければならかった。
わずかしか土地は残されていないといっても、元々、大地主なので、一家が暮らせるだけの土地はあった。
問題は、米作する場合の労働力である。
宗一郎は地主として君臨していたため、米作の作業は出来ない。
ところが、元の小作人達が、わずかな給金で作業してくれたのである。
いくら民主化が進めらたといっも、やはり封建的な思考はのこり、小作人達も元地主に恩を感じ、宗一郎達を助けたのである。
剛には厳しい宗一郎ではあったが、小作人には優しく接したお陰もある。
山田家が代々続いたのも、飢饉の折、米倉を開放して、一度も米騒動を起こしていないという歴史的事実もある。
剛が小学校低学年の頃、金一は宗一郎に剛が写った写真を送った。
宗一郎にとって、剛はかわいい孫である。
宗一郎は喜んで、金一に白米を小包で送った。
金一は貧乏生活だったので、白米は極めて貴重品であった。
この件をきっかけに
宗一郎と金一との間で、心理的ないさかいは消滅した。
その後、剛が小学校高学年になり、夏休みに一人で大分の実家まで遊びに行くことになる。
小学生単独旅行は、当時としては当り前の事であった。
「かわいい子には旅をさせよ。」
この余話 終わり