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山田金一物語:第2章:出征から帰還へ


1931年9月、満洲事件勃発。

1937年7月、日中戦争勃発。

そして日本は、大東亜戦争へと進んでいった。
「大東亜共栄圏」の旗印のもとへ。

対英戦のみに留まらず、1941年12月8日の「真珠湾攻撃」により、超大国アメリカ対米戦へと発展し、大東亜戦争は泥沼の道を歩む事となった。

1942年には金一は二十歳になった。

当時、二十歳から徴兵制が敷かれていたが、金一には赤紙(徴兵を通知する赤い色の葉書)はまだ届かなかった。

戦争には食料が不可欠である。
米は貴重品なので、米作農家、しかもその跡取り息子は
優遇され、出征は見送られたようである。

しかし、1943年ともなると、戦局も厳しくなり、ついに金一にも赤紙が届いた。


徴兵検査、甲種合格。
射撃で百発百中の腕前を見せた金一は、陸軍狙撃部隊が配属先と決まった。


南方戦線より北方戦線の方が厳しいとされていたので、満洲戦線には、泣く子も黙る鬼の関東軍、勇猛果敢な九州連隊が配属されていた。

大分県の金一は九州連隊に所属する。

そして、金一は、陸軍狙撃部隊として、満洲戦線に投入されたのである。

しかし、世界一を誇る大日本帝国海軍が投入された南方戦線は敗戦の翳りを強めていた。

そして、1945年3月10日、東京大空襲。
制空権・制海権は完全に米軍の手に落ちていた。

1945年4月7日、戦艦大和が沖縄戦で撃沈された。


その後、戦線が厳しくなるにつけ、大日本帝国陸軍は満洲戦線から撤退を開始した。
本土防衛の為の軍隊が必要とされたからである。

撤退の基本は、武家社会の古来より、先陣が最も強い軍、
そして、しんがりは2番目に
強い軍が充てられた。
しんがりは全軍退却終了するまで、戦線を維持しなければならない。
後の1945年8月8日の
ソ連参戦により、捕虜となりシベリア送りされたのは、このしんがりの部隊といわれている。

撤退は、勇猛果敢な九州連隊と鬼の関東軍の一部が先陣をきった。
関東軍の精鋭部隊と他の精鋭部隊がしんがりを努めた。

しかし、民間人まで守る余力はなく、民間人は自力で帰国しなければならず、ここに
「残留孤児」の問題が発生した。

九州連隊所属の金一は、無事に帰国でき、1945年8月15日の終戦を九州の駐屯地で迎え、その後、故郷の大分の地に帰りついた。




話は前後するが、金一が出征の折り、父の宗一郎は、金一に先祖伝来の無銘の三文刀を渡さなかった。

長男の出征に対し、親は先祖伝来の刀を持参させた。

「ご先祖様が息子の命を守ってくれる。」と願い、それが親心というものであろう。
(余談となるが戦地で正宗のような名刀が消えたのはそのような理由からである。)

しかし、宗一郎は息子の無事より三文刀を大切にし、言い放った。

「お国の為、立派に死んで来い。」

宗一郎は金一の出征を見送りにもこなかった。
母のふみは、そっと木陰から涙して見送った。


そして、金一が無事帰還したときも、宗一郎は
「皆が苦労している時、命が惜しくなったか、この恥知らずめ。!」


金一は肉体的な虐待には耐えられても、これらの精神的な言葉の暴力には耐えられず、
数日後、博多に向けて家出した。

母親のふみにだけは伝えた。
ふみはこっそり手弁当のおにぎりをつくり、金一に手渡した。

金一、山田家との別れであった。

         
          続く