”SNS怖い”を克服して
「どうせお前の日常になんか誰も興味ないわ」
SNSで何かを発信しようとするとき、私は常にこの言葉を心に留めている。
2000年代から2010年代にかけて急速に発達したSNSは、今では私たちの生活の一部になった。
SNSの普及により、個人の世界は大きく広がり、大きかった世界は手のひらサイズに小さくなった。誰でも何でも発信することができ、それを世界中の誰もが見ることができるという不思議な媒体。スマホ1台あれば、世界中のニュースから、身の回りの見えないところで起きているようなしょうもない出来事にまで手軽にアクセスできる。一方でその手軽さゆえに、私たちはスマホという武器を手に、世界を簡単に”知った気”になってしまいがちである。そうして世界はどんどん小さく単純なものになっていったと思う。
偉そうに語ったSNSの動向は実はどっちでも良いのだが、ともかく私はこのSNSというメディアが怖かった。
受信する側であるうちはまだ良い。ただ、自分が何かを発信しようとすることが怖かった。防犯という観点にも通ずるが、自分が何か手を加えた何かしらが誰にでも閲覧可能な海に放流されてしまうことに得体の知れない恐怖を感じていた。
鍵をかけて友人にだけ公開すれば良い、という意見もあるだろう。しかし、SNSには「名前を知っているから」という理由しかなくてもフォローが来たら返さないといけないという暗黙の了解がある。今現在全く付き合いのない友人は友人ではなく他人である。それだと、結局他人に自分の生活を公開することになる。
だから、私は友人の勧めでSNSのアカウントを作成しても、少し触っては放置し、時々眺めるだけの置物状態にしてしまっていた。
平成生まれのデジタルネイティブ世代のくせにこんな面倒な考えを持っているものだから、当然流行には乗り遅れるし、話題にもついていけないことが多くあった。それでも、学生時代のうちはぼんやりしてても学級があったりゼミがあったりサークルがあったりと、人との出会いには困らなかった。しかし、社会人になってしばらくした頃、ここから先の人生において人間関係は自然に広がっていくものではないということに気づいた。
そんな折、社会人になってから新しい友だちを作るには、趣味でつながるのが良いという話を聞いた。好きなものが同じということは、共通の話題には困らないということ、つまり”好きなものが同じは最強”と言うのだ。私の趣味は、90年代から活動している某ロックバンドの楽曲を聞くこと。同じ趣味を持つ人は日本中探したらたくさんいるはずなのに、私が生きている世界ではなかなか出会うことができない。それに気づいて初めて、自分の生きている世界が小さいと感じた。この小さい世界を少しでも広げるにはどうしたらよいか。
悔しいが、たどり着いたのは結局SNSだった。
アカウントを作成する。おそるおそる個人を特定されないような情報を選び、次々促されるチュートリアルも逐一疑いながら登録をした。そして一言めのつぶやきには、当たり障りのないような簡単な文を書いた。投稿ボタンを押す手が震える感覚は今も覚えている。
しばらくすると、鳥のマークの通知が画面を光らせた。
「いいね」が付いたのだ。なんてことだ。あんな何でもない文章に「いいね」が付いた。何が良いのだ。何も良くないだろう。
混乱したが、ひとまず「いいね」をしてくれたアカウントを見に行った。その人の自己紹介欄には、好きなものに関することと「無言フォロー失礼します」という文が添えられていた。
無言フォロー?それがあるなら有言フォローもあるのか?
フォローします、良いですか?って知らない人にいきなり話しかける方がやばくないか?でもそれをしないと失礼にあたるのか?
とにかく分からないことが多すぎたので、その日は見なかったことにして寝た。
そんなビビり散らかして始めたSNSだが、続けていると次第に話しかけてくれる人も増えてくるし、いつも「いいね」をくれる人がいることにも気づく。
顔も知らないのに、同じ趣味を持っているというだけでなぜだか友達になれたような気がしてしまうのがこの世界の不思議なところだ。
思っていたよりも優しい世界に恵まれたことで、私は少しずつ前向きに発信できるようになっていった。
もちろん、顔が見えない匿名性がゆえに誹謗中傷が横行したり、知らない人とつながることで発生するトラブルもある。だから、どんなに優しい人が多いコミュニティであってもここは安全な世界だと言い切ることはできないし、SNSを使うにあたり注意すべき点は多々ある。そういう意味で、ある程度の恐怖心や緊張感はむしろ常に持っておくべきだ。
また、いわゆる”趣味アカ”であれば、写真などをSNSに上げることによって誰かの楽しみを奪ってしまう投稿、ネタバレなどにも気を配る必要がある。
だから、自分が何かを投稿する際には、大げさであろうとも、これを世界中の人に見られても大丈夫か、と一旦自己検閲を挟んでから投稿に踏み切るべきだと私は思う。
しかし、そのような点にさえ気をつけていれば、SNSは私が以前想像していたほどには危険な世界ではなかった。
自分が何か手を加えた何かしらが誰にでも閲覧可能な海に放流されてしまう。それはSNSの特性上その通りだが、海の中の藻屑を誰が一つ一つ拾って眺めるだろうか。誰でも発信できるということは、発信されたものが世の中には無数にあるということ。そんな巨大なネットの海で、私の文章なんて私の日常なんて誰も見ていないしそもそも興味を持たれない。
だから大丈夫。誰かを不快な気持ちにさせるものでないのであれば、思い切って投げてみよう。歩きながら、電車に乗りながら、また、寝る前になんとなく考えてそのままにしていたこと。そんなどうでも良いことを文字にして残してみよう。
こんな消極的なモチベーションで、書き始めようと思う。
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