0を1に変える発想は「どこから?」
「0を1に変える発想」という言葉を見聞きすることがあります。 「0」は無い、「1」は有るを意味し、何も無いところから新しい何かを創造する意味と思われます。 そんな発想ができれば、抱えている問題を解決できて「いいな〜」と思う一方、 多くの人は「0」を「1」に変える発想はなかなか出来ないと思っているのでしょう。
不思議に思うかもしれませんが、本来は難しいことではありません。 とはいえ、気持ちを切り替える勇気は必要です。
なぜなら現状を変えたくない人たちがいて、その中に自身も含まれているからです。 まず、自分自身と対峙し乗り越えなければなりません。 そして、多くの反対する人たちが待ち構えています。 納得して頂くことは、たいてい容易なことではありません。
知識に頼りすぎている
難しい決断を迫られていると、たいてい誰かが出した良い答えに頼ろうとします。 この様な場合、多くの人は自身で考え、決定することを好んでいません。 失敗を恐れるからです。
皆が認めた実績のある答えの方が、優れていると思っているからでしょう。 自ら発想するという感覚がありません。
そして、大抵のことは過去の事例で解決できます。「いかに情報を引き出すか」が重要視されています。
しかし、自身だけが窮地に立たされ、誰かを当てにすることや過去の事例がない場合もあります。 「知らないことがあるとできない」と思っていたら、先へ進めません。
0を1に変える発想を欲するなら、知識に頼りすぎていると、気付いていると思われます。 自らの意思で考え、行動することも時には必要です。
難しくしているのは、正しさ
ある正しさを信じる
もし「0=0、1=1」を正しいとするなら、 決して変わることはないため「0」が「1」になることはありません。 どう足掻こうとも、何もすることはできないでしょう。
その正しさを捨てる
反対に正しいとしないなら、「0」を「1」に変えられると思えば変えられます。
ただ目的に応じて捉え方を変えれば良いだけです。 「1-1=0」ですから「0」は「1と-1」と捉え、「-1」を破棄、もしくは無視をすれば良いのです。 そうすれば「0→1」にできます。
それでも、「-1」を破棄、もしくは無視をするのはおかしいと思う人もいるかもしれません。 そうした人は、変えられると思っていません。 できない理由を探していては、できるはずもなく、目的を軽視しています。
求められていることは、まず目的を達成することであり、完全であることではありません。 後から、生じた問題に対処すれば良いからです。 完全さを求めるのは、まだどこかでその正しさを信じています。
現実は「静」ではなく「動」
私たちが思考する場合、空間として擬似的な静止状態を作り、時間として段階的な過程に並べ、動作を制御しながら答えを導きます。 途中経過や答えが出される場合、静的な状態が多いため、物事のほとんどは「静」と扱っています。 そのため通常が「静」と勘違いしてしまいがちです。
しかしながら、冷静に捉えれば現実は変わり続けていると気付くでしょう。
基本は変わり続けるのが通常で、変わらない状態が特別です。 なぜなら、まず変わらない状況では、変わる状況を再現することはできないからです。 そして変わっている状況なら、変わらない状態を擬似再現することができるからです。 周期的に同じことを繰り返している状態をその同周期で捉えれば、再現できます。 簡潔に、繰り返している状態を一つの状態と捉えてもできます。
現実に終わりはありません。 継続しているため、出された答えはすべて途中経過です。 暫定的に確定させたことであり、厳密には正しくなく、正しいと扱うことです。
正解とされた答えは「静」であり、動作している現実では問題があります。 しかし、正しいとしたことは、なかなか訂正しようとしません。 「証明できないが、とにかく適切ではない」という事態はあっても、「理論が実際に再現される」として押し通そうとます。
例えば、周期的に同じことを繰り返す状況において、周期的に同じタイミングで再現するなら、理論が成立することになるでしょう。 しかし、その周期の間もあります。 そのため、間にある無数タイミングの何処を選ぶかが問題になります。 さまざまな状況があり、タイミングを変えたい場合も生じるでしょう。 理論に合わせて、社会が成立してるのではありません。 社会が理論を利用するのです。 状況に合わせて変えられないなら、正しくても不適切になります。
現実は動いてるのですから、過去の正しさにこだわらずに考える必要があります。 状況に合わせて変えられることは、自然にできなければなりません。
どちら側に重点を置くのか
発想は「過去」に「記憶」したことを「未来」で生きる情報に変えることによって成立します。 「静」と「動」をどちらに重点を置くべきか、考えてみましょう。
まずは記憶です。 記憶は、変わらない状態の「静」をイメージする人が多いと思われます。 しかし現実は「動」ですから、積極的に維持しなければ失われることもあります。 そして利用するには行動に移す必要があり、再利用することがあるから記憶します。 発想を利用する場面を思い描くなら、重点を置くべきは「動」です。
次に、過去と未来です。 過去は変わらないため「静」、未来は定まっていないため「動」です。 おそらく未来に重点を置く人が多いでしょう。 もっとも重視すべきは現在であり、未来に希望を抱くからです。
そして過去と未来に関わりのあるのが「正しさと必要性」です。 正しさは過去に関わり、必要性は未来に関わっています。 しかし「正しさ」と「必要性」を並べて考えることは、ほとんどありません。 事実の「正しさ」は、すべてに優る事のように扱われているからです。 その信頼は別格です。
多くの人が未来の方が重要と思うにもかかわらず、実際は多くの人が過去の実績を重視しています。 つまり「静」を重視しています。
そして「静」を重視することは抜け出せなくなることを意味します。 「静」から「動」へ変えるのは困難だからです。
したがって、発想を求めるなら重点を置くべきは「動」です。 そのためには「正しさ」の信頼を見直す必要があります。
「正しさ」はどちら側に置くのか
正しさについて、「動」と「静」どちら側に重点を置くのか、改めて考えてみましょう。
現実は「動」ですから、本来「正しさ」も「動」です。 しかし「動」の状態では上手く扱えないため、擬似的に「静」を作り出して扱っています。 私たちが扱う「正しさ」は「静」です。
そして環境は、もちろん「動」です。 したがって、その「正しさ」がいつまでも通用するわけではありません。 さらに、その期限は不明確です。 「静」に重点を置けば、期限が切れても気付かず、問題を起こすでしょう。 私たちが作り出した「正しさ」を過信すべきではありません。 意識していなければ、問題の程度すら判らないのです。 重大な問題を放置してしまう可能性もあります。 その場合「気付かなかった」では済まされません。
したがって、その対処が最も重要です。 誰もが「動」と認識していなければなりません。 つまり「静」と「動」のどちらも必要であり、切り替えられるバランスが大事です。 時間的な感覚が必要であり、時間の概念も理解していることがとても重要になります。
気持ちを切り替えよう
多くの人はおそらく、正しいと言われることを信じてきたと思います。 「それを信用してはいけない」と言われれば戸惑うでしょう。
しかし実際は、正しいとされていても不測の事態が起こることがあります。 その時、それでも信じるなら、何もしません。 問題が起きても、問題があると認めず、押し通すことになるでしょう。 それはそれで、戸惑うと思います。
ですから、正しいことだけを扱ってきたのではないと気付くはずです。 つまり極端な場合では問題になるため「ほどほどが良い」ということでしょう。 「正しさ」には期限あり、その期限は明確ではないため「大きく外すことはない」という意味が適切です。 気持ちを切り替え、ある程度は常に疑って扱うべきです。
問題があっても認めず、押し通すことが多くなってしまう世界を想像してみてください。 過剰な信頼を置いていた人は、認識を改めましょう。 正しさは明確ではありません。 その明確ではない事を基準に行動すべきではありません。
状況を考える
設定してみると
ほんの少しですが、具体的にして考えてみましょう。 「0」は解らなく、存在が無いこと、「1」は理解し、存在が有ること、としてみます。 「0=0、1=1」を正しいとするなら、これから理解できることは何もないでしょう。 すでに理解した事を駆使して何とかするしかありません。
一方、他の誰かが「0→1」とすることがてきたなら、それを真似できます。 つまり真似をすれば、新たな「1」として誰でも認めることができ、理解したことにできます。
通常、正しくないことは受け入れられませんが、気付かないなら受け入れらるということでしょう。 いずれにせよ、「0」を「1」に変える発想がなければ、何も存在できません。 それは「正しくないが受け入れた」という事実です。
おそらく求めているのは正解
0を1に変える発想は「どこから?」の答えは「正しくないところ」です。 信じるかはともかく、正解が「正しくない…」というのはおかしいと思うはずです。
では、どうしてこの様に状態になってしまうのでしょう?
それは、『0を1に変える発想は「どこから?」』という設問に問題があるからです。
「0を1に変える発想」は、何もない状態から創造することであり、どこかにある完成した物を持ってくることではありません。 「どこから?」は、既にある完成した物の場所を尋ねています。 つまり正解はどこにも無いとしていて、それでも正解が欲しいから求めています。
この様な「正解は無いとしても正解が欲しい」状況は、多々あるでしょう。
このわだかまりを実現する方法は、ひとまず忘れて、事実として受け入れることです。 事実なら堂々と正しいと言える状況があるからです。 そして、周りの人を信じさせる力があり、押し通すことも可能です。
例えば、腐った物は食べないことが正しいと信じていたある人がいます。 そして、納豆は腐っていても食べられるため「0を1に変える発想」とします。
そのある人にとって、納豆は知らない物であり、食べ物でもありません。 有るはずのない物なので、どこにも無いことが正しいことになります。 偶然、蒸した大豆を腐らせて納豆を作ったとしても、捨ててしまうでしょう。
しかし、腐ったと知らなければ食べてしまうかもしれません。 腐っている物を食べても問題がない事実を知ったのならば、これまで正しいと信じていた認識を改めるでしょう。 先ほどの「ひとまず忘れて、事実として受け入れる」というのは、この様な場合です。
一方、実際に食べてしまった後に腐っている事実を知り、問題があると捉える人もいるでしょう。 臭い匂いやネバネバを嫌う人もいるからです。 害が有ると感じる人もいます。
双方に言い分があり、間違っていると言えません。 しかし、統一した認識が欲しいところです。 食べたくなければ食べなければよいため、おそらく食べられる事実になるしょう。
とはいえ、腐った物を食べると危険が伴うのも事実です。 状況に応じて「腐る」という曖昧な言葉を使わず、「腐敗」と「発酵」に使い分ける必要があります。 納豆は腐る(腐敗)とは言わず、「発酵」した物だから食べられると解釈します。
そうすると、やはり「腐った物は食べられない」とすることもできます。
さまざまな事情を考えると二転三転しますが、それが通常です。 曖昧なことを確定することが発想だからです。 つまり「0を1に変える発想」は「有ると思えば有るが、無いと思えば無い」ということです。 そしてそれは、ありそうに無い正解を求めると無くなることを意味します。 あっても気付けないのです。
以上のことから、その「わだかまり」実現するには「ひとまず忘れる」ことが必要になります。
『0を1に変える発想は「どこから?」』という設問に疑問を持たない人も多いでしょう。 正しさは、漠然と事実を信じることで、気づかず更新されて広がって行けた思われます。
事実は事実の一部
実際に再現される事実は確かなことです。 そして実際に在ると判る物だけを見るなら、それが全てです。 事実は一見、完全に正しい事の様に見えてしまうでしょう。
しかし、証明できた事だけを信じ、想定外は無いと言い切れるでしょうか? まだ、解っていないことは確実にあります。 想定外を考慮しないことは、自惚れています。 現実に現れているのは一部であり、隠れている部分があると捉えることが自然です。
ある同一の対象を見ても、人それぞれ異なる解釈をするでしょう。 見る角度によって、見え方は変わり、見える部分と見えない部分があります。 ありそうに無いと思うと、あっても気付けないのです。 見えている部分だけから求めた答えに、絶大な信頼を置くのは問題です。 事実の正しさは参考程度に留めるべきであり、いつでも状況に合わせて変えられなければなりません。 一つの視点から求めた静的な正解こだわらず、常に、動的に対処することが求められています。
動きがあることは、立場が入れ替わる場合があることを意味しています。 静的に捉えるなら、複数の視点を統合し、認識として確定させる必要があります。
阻む人たち
「0」を「1」に変える創造的発想は、結果を出さなければ信用されないことも多いでしょう。 現状では正しさに信頼を置く人たちによって阻まれています。 その発想を実現させるには、その人たちと関わることになり、何とかしなければなりません。 曖昧な「程々な正しさ」、説得できる「現実的な正しさ」で対処するしかありません。 そのことは、大きく間違えない様にする意味では、上手く行っています。
しかし完全な答えはないのですから、正しさに絶大な信頼を置いている人たちは様々な問題を起こします。
完全ではない正しさは無数にあるため、互いに信じる正しさが異なる場合、衝突することになるでしょう。 このとき、互いに絶大な信頼を置いていると、そのぞれの正しさを信じて引くに引けない状況になります。
さらに、正しさを信じている人は、たいてい状況を理解していません。 なぜなら、状況は常に変化しており、正しさでは上手く表せないからです。 過去に正しいと認められ、その後は正しいから正しいと伝わっているだけにすぎません。 当初の状況を気にしている人はほとんどいないのです。 そして当然、状況が分からない状態で話をしても、その意図は伝わらないでしょう。 正しいことを話しても、意味が分かりません。 異なる正しさを信じている者どうしの話し合いでは解決は難しいでしょう。
そして、上手く解決できない状態が続けば、最悪、武力闘争に発展するかもしれません。 しだいに我を忘れて、『「正義」のためなら「悪人」を滅ぼすことは厭わない』となる人もいます。 ここでの「悪人」とは、己が信じた正しさを汚す者です。
要するに、正しさによって話が通じなくなった人たちに、悪人とされてしまうリスクがあるということです。 過剰に正しさを信じている者に間違っていると言ってはいけません。 注意して切り抜けましょう。
本当に求めていること
答えを導くための方法
正しいと認められた前例に従うと、たいてい上手く行くのですが、それを前提にしている人はほとんど考えません。 完全な正しさはないため、それは大変恐ろしいことです。 正しさでは話が通じないことに気付いていません。
たとえば、あるお店でカレー注文したつもりが、シチューが配膳される出来事かあったとします。 そのお店ではこの時、カレーは売り切れてメニューから外していました。 それを知らないそのお客が、画像だけを見て注文したからです。
つまりそのお客は、見た目がカレーに似ているシチューを注文しました。 しかし事実から、客が食べたかった物を明確に知ることはできません。 店主からは、注文されたシチューがお客の食べたかった物と映ります。
事実はよく正しい事として扱われますが、「間違えて注文」したのか「正しく注文」したのか、区別が付けられません。 なぜなら、事実は意味を持たないからです。 意味を持つのは、人の意思が関わる場合です。 その答えを決定づけることは、注文した人の意思です。
意味を持たない正しい事実を話しても、意味が通じません。 「正しさを追求してから答えを決める」というプロセスがおかしいからです。 まず必要な答えを求めなければなりません。 その答えが認められて正解になるのです。
本当に求めていることは、必要な答えであり、それを求める方法です。 正解ではありません。
ありもしない完全な答えではなく、刻々と変わる状況に合わせて十分な答えを出せることが必要なのです。
正しさにこだわらない
正しさを信じるなら、何かしら問題があると選択の対象から外すと思われます。 状況によって条件は変わり、それに合う選択肢がなければ諦めるしかないからです。 もしくは、無理をして近い条件の選択肢を選ぶでしょう。 それでは永遠に解決しません。
実績のある正しい答えに当てはめるのではなく、状況に合わせた答え出すことも必要です。
それには、まず正しさにこだわらないことです。 正しさを捨てることによって、選択肢を広げることができるからです。 自由に広げられるため、膨大な選択肢を獲得できます。 とにかく発想を得るだけなら簡単です。
一方、その中から良いものを選び出すなら、いろいろ試さなければなりません。 それには時間がかかります。 工夫が必要で、特有のセンスが必要になります。
「特有のセンス」
「特有のセンス」とは、あることに特化した感覚、要するに「カン」です。 膨大な選択肢から良い物を選び出すには、ある程度は見当を付けなければできません。 そして、達成できる見込みも判断しなけれなりません。 まだ、それらに根拠は無く、どうしても「カン」に頼ることになります。
「カン」はその人の素質やそれまでの経験によって出されることです。 鋭さを持ち合わせてないなら、今すぐ、どうこうすることはできません。 これから鍛えるにしても、漠然とし過ぎて無理があるしょう。
技術で補う
「特有のセンス」がないなら、存在する技術で何とかするしかありません。 時間がかかりすぎるのですから、時短をすれば良いのです。
とはいえ、時短ができれば何でも良いのではありません。 何をすれば、時短につながるのかよく考えてみましょう。 当初の目的が最優先です。 限られた時間内に、良いものを探し出すことです。
正しさばかり気にしていると、当初の目的は忘れがちになるので気を付けてください。
常に考えておく
「0」を「1」に変える様な発想は、常に求められているわけではありません。 おそらく必要があるのは、ピンチの時でしょう。 通常の対処ではどうにもできない時にこそ真価を発揮します。 その様な状況に晒される前に考えて置くことは有効な手段です。
基本的に見込みがまったく判らない発想では役に立たたないでしょう。 運用できるかが重要であり、その判断ができなければなりません。 無数にある発想からいくつかを選び、それらを組み立て、比較、検討を繰り返します。 見込みがある状態にするために考慮すべきことは、無限にあります。 尽きることはありません。 そして、他者の力も借りることになるでしょう。 信頼してもらわなければ、先へ進むことはできません。
日頃から考えておくことは、練習にも下準備にもなり、欠かせないことです。
既に、発想力のある人は常に考えています。 寝ているときでさえ無駄にしていません。 ピンチになって初めて考え出すのでは、遅すぎるのです。
発想を引き出すための整理
発想を基に組み立て、比較、検討を何度も繰り返すことになります。 ここで失敗し、もたつくわけには行きません。 まずは整理することから始めましょう。 足りないことや無駄なことを知って、するべきことを明確にします。
知識が足りなければ、せっかくの良い発想も捨ててしまうことになります。 発想する上で、この取りこぼしが、致命的な失敗になるかもしれません。 引き出したい発想の分野はできるかぎり、よく知っている方がよいでしょう。
比較、検討する上で、基準が曖昧では適切な判断はできません。 組み立てる上では、基礎が軟弱では崩れてしまい、方針や指針がなければブレてしまします。 何度も同じことを繰り返さないために必要なことです。
それらのことは当たり前ことですが、そうして続けていると、結果的に「カン」は養われると思われます。 何の根拠もありませんが、そう信じて害になることもないでしょう。
特別なことではない
ただの想像力
「0」を「1」に変える発想の源は、ただの想像力にすぎません。 創造的発想をするにあたり、特別なことはありません。 想像力は誰でも持っています。
そうはいっても得意、不得意はあります。 創造することが苦手と感じている人もいるでしょう。
得意、不得意
創造的発想が不得意、苦手だとしても、それを克服しなければならないことではありません。 また、発想において「すべての分野が苦手」ということはないはずです。 得意な分野もあるのですから、その分野での発想を生かせば良いのです。 それが無理なら、得意な人にまかせても良いと考えます。
しかし、どうしても達成したいことに関わるなら、克服する必要はあるでしょう。 苦手なことが足を引っ張っているなら、問題にならない程度に頑張ってみるのも良いと思います。 達成したい目標に対して必要な行動は、モチベーションが続くためチャンスです。 目標を達成するついでに、この機を逃さす克服しておきましょう。 もちろん、完全である必要はありません。
されど想像力
大勢の他者が考えることは、明確にはわかりません。 そして、それぞれが知ることのできる事はわずかです。 社会において関係を築く必要があり、想像力は欠かせない能力です。
近年、地球温暖化の問題や持続可能な開発目標(SDGs)の活動が頻繁に叫ばれるようになりました。 よく見聞きするでしょう。 さまざまな問題を抱えています。 その原因の1つは、賛同している者の多くが都合の良い正しさを押し付け合い、その正しさすら理解していないことでしょう。 それでは、うまく行くはずがありません。
例えば、すべての自動車を今すぐ電気自動車へ切り替えれば、地球温暖化問題やSDGsに貢献すると思っている人は多いでしょう。 しかし、期待するほど効果はありません。 作られた電気の多くが化石燃料由来だからです。 さらに、そこで使われるバッテリーは様々な問題を抱えています。 十分に切り替えられるほどの状況ではありません。 たとえば、長期の運用ができず、リサイクルも上手くできません。 現状の電気自動車は、まだ特別です。 一般的な自動車になれず、持て余すだけです。
気付いている人もいますが、あまり問題として取り沙汰されず、この過剰な勢いを抑えられません。 競争がある中、それぞれが思う正しさを押し付け合い、混沌としているからです。 基本的に「様々な問題があっても欲しい」と思う人が、多いはずがありません。 無理をしていたり、買い足しの割合も多いでしょう。 そこまで急いでも結果は伴いません。
バッテリーを開発して運用が上手く行けば、切り替えができ、解決するのは確かです。 しかし問題が多々あり、直ぐにはできません。 開発によって問題を解消するペースより消費量の増加のペースが速いでしょう。 電気自動車に使われるバッテリーは持続可能ではなく、大量消費して良いものではありません。
求められているのは、まだ問題なあるバッテリーを極力少なく、効率良く運用する仕組みです。 基本的に自然エネルギーによる発電を増やさなければ、化石燃料由来の燃料の代替えできず、削減ができなからです。 つまり今は、化石燃料由来の燃料を抑え、自然エネルギーによる発電を増やすためにバッテリーを使うべきなのです。
そうすると、自動車においてできることは「無駄を抑えるために発電、無駄になる動きで発電」となります。 発電機能を追加し、電力による走行とアシストをするバッテリーを極力抑えた電気自動車です。 現実的には、燃料と電気のハイブリッド車であり、そこに太陽光パネルの追加するモデルが理想です。
たとえ少しでも、太陽光パネルによる発電が毎日できるなら、安心して電力を使えます。 災害時にも強く、燃料の消費抑制、防犯対策や車内空間の様々な活用が期待できるはずです。 例えば、真夏の炎天下に長時間駐車していると、車内はかなりの高温にさらされますが、それを防ぐことができるでしょう。 常に動作できる電力の見込みがあるのですから、長期安定のためにする管理機能は欠かせないと考えます。
事の発端は、欧州が2035年までに化石燃料由来の燃料を使う新車の販売を終了する方針を掲げたからです。 温暖化対策において、正しさを謳い文句に目標を掲げてますが、それで良い、ということはありません。 その目標によって、世界中のハイブリッド車の開発にブレーキをかけたのです。 当時の海外メーカーは、まだハイブリッド車の開発ができていなかったからです。 そうして競争に有利な完全な電気自動車の開発に専念しました。 その発表当時、日本ではハイブリッド車を実用化してましたが、何も言えなかった様に思います。 おそらく「方向性は正しい」から、否定してはいけないと思ったのでしょう。
しかし、電気自動車の販売が伸び悩むようになったことで、今では海外でもハイブリッド車の開発が進み販売されています。 当時の海外メーカーの選択は間違っており、ハイブリッド車を推していた日本が適切な判断をしていたということです。
それでも最終的に完全な電気自動車になると考えられていて、その市場を獲得したい思惑があります。 ハイブリッド車は微妙な扱いを受けています。
残念なのは、その当時、未来の正しさを都合良く使われて翻弄されたことです。 電気自動車の販売が伸び悩むイメージを伝えられたなら、また違った展開になったはずなのです。 「今すべきこと」と「方向性の正しさ」は別のこと。 上手く主張できたなら、完全な電気自動車の分野で日本は出遅れなかったかもしれません。
未来を予測して判断をするとき、考えることは「適切か、どうか」です。 「正しいか、間違いか」ではありません。 未来の出来事に評価を付けることが習慣になっているなら、時間の感覚が麻痺しています。 そんな状態では想像力を発揮しできません。 時間を意識し、感覚を取り戻しましょう。
正しさに惑わされず、想像力を発揮し、より良い方へ切り替えて行く必要があります。
進んだ後にそれは有る
欲して足掻く
「0を1に変える発想」が欲しい人は、さまざまな問題を抱えていて、漠然とそう思っているのでしょう。 明確にできないのですから、分からないのも仕方ありません。
それでも言えることはあります。 「進むべき先が分からないとそれは無く」、「選んで進んだ後に有る」ということです。 それがヒントになるでしょう。
進んだ後に有るのですから、おそらく材料は持っています。 欲しているけれども未だないことと、自身の強みを活かせることについて考えてみましょう。 簡単には見つからないと思いますが、気に留めておいてください。 そして、とにかく何か行動してください。 待っていると同じことを繰り返してしまうからです。 気に留めたことを意識して行動に移すとによって、新たな動機につながります。 動機があれば目的が決まり、するべき必要なこと分かってくるでしょう。
足掻いてでも目的を達成する意欲があれば、どこかで気付くはずです。 そう信じるしか選択肢はありません。 できないと思えば、気付かないからです。
進んでから調整
何もできないでいるなら、とにかく進んでから考えれば良いということです。 どうしたいかを明確にしないと、何が必要になるのか分かりません。
そうすると時間の浪費の様な、取り返しが付かない失敗を恐れるかもしれません。 しかし何もしなければ、そこで終わりです。 それこそ取り返しが付かないことでしょう。
また、まったく失敗ぜずに成功する人はいません。 小さな失敗なら、やり直せますから、小さな一歩を作り、踏み出しましょう。 その失敗は無駄ではなく、成功するために必要なことです。
自分を信じて進もう
正しさを信じていると、これまでしてきた事を簡単には変えられず、問題になることがあります。
そうした事をなくすためには、いつでも変えられる必要があります。 それができるのは、自分の意思だけです。 ただし、自分の意思で選択したことが「正しさ」であってはなりません。 「正しさ」に従うことになってしまい、自分の意思から離れて行くからです。 信じるべきそれが「自分の意思」なら「自由に変更できる」という意味です。 生じた問題に対して、臨機応変に対処することが可能になります。
しかし今度は、正しさを信じる人たちが道を阻みます。 そうした人たちを説得しなければなりません。 問題があっても簡単には認めません。 強く自分を信じていないと、逆に説得されてしまいます。
まず知識が足りなければ、説明ができません。 指針や方針がなければブレてしまい、基準が曖昧では適切な判断はできません。 そうした基礎がないと自信が持てず、信じて行動できません。
最低限の基礎知識として、確実な真実は得られないことを知っている必要があります。 現実は止まっておらず、常に変化しているからです。 つまり「正しさ」は、私たちが行った暫定的な評価にすぎず、指針や方針の上で認められたこと意味します。
そして、根幹となる基準は「時間」となります。 距離を測るときや移動するときは必ず経過を要し、経過が距離に価値を与えているからです。 一方「空間」はその基準を使って関係性を知るための比較を行う場です。 本来それらの基礎知識は、常識になっているべきことです。
残念ながら、それらのことはあまり認知されていないようです。 多くの場合、空間を基準にして、根幹となる基準の「時間」を忘れているからです。
空間を基準にして考えても十分な結果が得られることも多く、その成功した体験は自信になります。 何度も繰り返えすことになるでしょう。 そうして「成功した正しいことは見直す必要がない」と自惚れ、時間が想定外になるのです。
正しいことも見直す必要があるのです。 自惚れてはいけません。
これまでの事に疑問を感じ、解決したいなら、まず気持ちを改て自分が行動しなければ初まりません。 その時は、とにかく進むしかないと受け入れ、気持ちを切り替えましょう。 そして、独りでできることは少ないため、おそらく多くの人を頼ることにもなります。 このとき共感できる何かを持っていなければ、信頼は得られません。 自信がないことは、達成する見込みがないことを想像させ、共感しないでしょう。 自分だけではどうにもできないことも、自分を信じて進むことになります。
正しさに頼らない考え方ができれば、自信を持てます。 自分を信じて進むことは、私たちが信じ合うために必要です。
喜びになって帰ってくる
創造的発想は膨大にあり、良い物を選ぼうとすれば、結果的に大変になります。 また多くの人と関わる必要があり、それを認めてもらわなければなりません。 発想することは簡単ですが、それを現実のものにして行くことは容易なことではありません。
とはいえ、まったく出来そうにないこと、ではないはずです。 出来た人は、出来ると信じて行動しているからです。 意外と無謀なことではありません。 出来ないと思っていると、できないのです。
0を1に変える発想は「どこから?」の答えは「正しくないところ」です。 その答えに、価値を感じなかったと思います。 正しいことを信じていると、イメージが湧かないからです。
しかし発想する気があれば、その答えの意味を感じとれるのです。 もしそれが、納得できる様に変わったのなら、喜びになっていることでしょう。 意味のなかったことを価値のあることに変えられると楽しいものです。
他者からみて出来そうにないことを、現実のものにすれば、0を1に変える発想として認められます。 そこでした苦労は、喜びになって帰ってくるでしょう。 抽象的で分かり難いことですが、行動してみる価値はあるはずです。
最後に想像力をあげるためのヒント… になるかもしれない? 私が書いた本をご紹介します。
感覚を見直す機会になると良いなぁ〜 と思っています。