なぜ古代の哲学者は肉を食べへんかったんや?
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今日では、ベジタリアンやビーガンの選択肢を提供するレストランがどんどん増えてきてるんや。肉を食べへん食事がますます人気になってきてるからな。それに合わせて、そういうライフスタイルに合う製品や代替品もどんどん進化してきてるんやけど、これは別に新しいもんちゃうで。
実際、何千年も前から世界中のいろんな文化で、ベジタリアンの人はおったんや。特にインドでは、多くの宗教的な伝統がベジタリアン食を勧めてたりするやろ。
せやけど、もっと西の方、ヨーロッパとかヘレニズムやローマの文化が支配してた地域ではどうやったんかな? 実はそこでもベジタリアンはかなり一般的やったんや。特に宗教的で哲学的なコミュニティや伝統、例えばピタゴラス教とかに関連してたんやけどな。
これは動物の生贄や動物の権利の問題とも関わってくるんや。今日はこのベジタリアニズムについて、古代の人々がどう考えてたかをもうちょっと深く掘り下げてみたいと思うんや。特に、道徳性や倫理、動物の生贄や動物の権利について、ある非常に興味深い哲学者の著作を見ていくことにしよか。
ヘレニズム世界はもちろん多様で、異なる大陸にまたがり、多くの文化がオリジナルのヘレニズム文化と混ざり合ってたんや。だから、こんな広大なトピックについて一般化して何か言うのはかなり難しいんやけどな。
宗教に関しても、今日の私たちが理解するような意味での「ヘレニズム宗教」というものは本当はなかったんや。でも、ほとんどの人はギリシャのオリンポス神殿の神々や、それに関連する信仰のことは知ってるやろ。これは確かにこの文化の重要な要素やった。神々と人々の関係は生活の重要な側面やったんや。
宗教的な儀式に関して言えば、ほとんどの歴史を通じて、動物の生贄が非常に中心的な役割を果たしてたことは間違いないな。これについては、ホメロスの叙事詩の中にも明確な証拠が見つかるんや。『イリアス』や『オデュッセイア』を見ると、人々がゼウスや他の神々に牛を捧げたりしてるのがわかるやろ。旅に出る前とかにな。
こういう古い文章や、大きな宗教的な祭りでの儀式を描写した他の多くの資料にも、動物の生贄のことがたくさん出てくるんや。重要な儀式の一つが、まさにその生贄の奉納やったんや。生贄にした動物の食べられへん部分は神々に捧げられて、食べられる部分は調理されてコミュニティで食事として分け合われたんや。
さて、宗教的な儀式や信仰にとって動物の生贄がこんなに重要やった文化では、ベジタリアニズムはあんまり一般的やなかったんちゃうかって思うかもしれへんな。でも、実際はそうでもないんや。
ベジタリアニズムやベジタリアンのライフスタイルは、特定のコミュニティや伝統と関連してて、重要な側面やったんや。特に有名なのが、いわゆる「密儀カルト」の一部、その中でも特にピタゴラス教やな。
実際、ピタゴラスはこの話の重要な部分なんや。彼が本当に生きてたかどうか、いつ頃の人やったかは正確にはわからへんのやけど、紀元前6世紀から5世紀の間に活動してたと考えられてるんや。
イタリアのクロトンという都市に落ち着いた後、ピタゴラスは信奉者のグループを集めたんや。これがピタゴラス教として知られるようになったんやけど、秘密の秘教的な教えを共有して、特に特定のライフスタイル、「ピタゴラス的な生き方」で知られるようになったんや。これには他のものと一緒に、ベジタリアン食も含まれてたんやで。
何世紀も経って、元々のピタゴラス教徒が一つのまとまったグループとして存在しなくなった後も、その文化的な記憶は残ってたんや。ピタゴラスは、ある意味で最初の哲学者として見られるようになって、秘教的な哲学の系譜の創始者の一人と見なされるようになったんや。この系譜は特にプラトンやプラトン主義者たちによって主張されたんやけどな。
ピタゴラス教に関連付けられてるものの多くは、おそらくピタゴラスと彼の元々のコミュニティに投影されたある種のプラトン主義やったんやろうっていうのは重要なポイントやな。でも、後期古代になると、新ピタゴラス主義としてよく知られる形でこの学派が復活したみたいなんや。特に紀元後最初の数世紀にはな。
数学や世界がすべて数学やっていう思索とは別に、このピタゴラス主義は特に「ピタゴラス的な生き方」と関連付けられてたんや。後期古代では、ピタゴラス教徒であるということは、ほとんどの場合、特定の行動規範や振る舞いを守るということやったんや。
後期古代のピタゴラス的な生き方には、よく髭を生やすことも含まれてたんや。これは当時支配的やったローマ文化では、かなりタブーやったんやで。ローマ人は髭を剃るのを好んでたからな。それに、ボロボロの服を着たりするのも含まれてて、現代のヒッピーのイメージに似てるんやな。そして、ピタゴラス教徒であることや、この生き方を守ることには、通常ベジタリアンであることも含まれてたんや。
さっき言うたように、ピタゴラス主義は特にプラトン主義と結びついてたんや。多くの重要なプラトン主義の哲学者たちが、「ピタゴラス的な原則」に従って生きてたんやで。これは、新プラトン主義とか後期プラトン主義と呼ばれるものが登場してきたときに特に明確になってくるんや。
この学派の創始者と言われるプロティノスは、おそらく歴史上最も影響力のある哲学者の一人やな。彼は3世紀に生きてて、元々はエジプトのアレクサンドリア出身やったんやけど、哲学者としてのキャリアのほとんどをローマで過ごしたんや。
ここで彼は多くの生徒を教えて、後に『エンネアデス』を構成することになる論文を書いたんや。これはプラトン主義思想の傑作やな。
プロティノスの個人的な生活についてはあんまり知られてへんのやけど、彼は比較的質素な生活をしてたみたいや。あんまり食べへんかったって言われてるし、今日の話題に関係あるところでいうと、食べるときはピタゴラス的な理想に従って、完全なベジタリアン食を取ってたんやで。
プロティノスみたいな人たちにとって、ベジタリアニズムは哲学的な生活を送る上で重要な部分やったんや。ある種の自己否定や禁欲主義で、魂が体の欲望にあんまり焦点を当てんようにして、むしろ魂と知性の内なる生活、つまり私たちの真の本当のアイデンティティにもっと焦点を当てるのを助けるもんやったんやな。
新プラトン主義を短く要約するのはすごく難しいんや。もっと詳しく知りたかったら、この話題についての私の入門エピソードをチェックしてみてな。でも簡単に言うと、これは主に個人の魂を神聖なもの、絶対的な現実に戻して、それと一体化させることを目指す哲学なんや。
プロティノスと新プラトン主義者たちは、現実をいくつかの「ヒュポスタシス」を通して考えてたんや。これは「実在」とか「現実のレベル」みたいに訳せるかもしれへんな。すべてのものの中心には「一者」(ト・ヘン)、つまり絶対的なものがあって、すべてのものがそこから生まれてくるんや。
「一者」からは、異なる段階で流出したり流れ出たりするんや。まず「ヌース」から始まるんやけど、これは「精神」とか「知性」、時には「意識」って訳されるな。これに続いて、「魂」が流出して、最後に「自然」の物理的な宇宙が生まれるんや。これは「魂」、つまり「世界魂」から、あるいはその後に生まれるんやな。
これはすべて統合された全体やってことを覚えておいてな。これらすべては「ヌース」の中で起こってるし、ある意味では「一者」の中でも起こってるんや。でも、これらは異なる「ヒュポスタシス」なんや。
人間、つまり哲学者は、自分の視線を上へ、あるいは内側へ向けて、自分の真の「ノエティック」な現実を観想し、梯子を物質的なものから「ヌース」へと上がっていくことが求められるんや。そこで「ヌース」と一体化したり、一体化を実現したりして、「一者」とさえ一体化できるんやで。
これはよくあることやけど、この世界でどう生きるか、どうあるべきかについての一連の原則も伴うんや。これについては、この議論の中で見ていくことになるな。
プロティノスみたいな人にとっては、理想的にはベジタリアンのライフスタイルがこれに含まれてたんや。でも、肉を控えるのは単に禁欲的な目的だけやなかったんやで。倫理的な要因も、さらには形而上学的な要因も関係してたんや。
これは特に、プロティノスの最も有名な弟子であり生徒であるポルフュリオスの著作の中で特に明確になるんや。実際、ポルフュリオスはこのトピックにとってめっちゃ重要なんで、このエピソードのほとんどは彼のアイデアと著作を探求することに捧げられることになるんやで。
ポルフュリオスは、今日のレバノンかシリアにあるティルスという都市で生まれたんや。フェニキア人のセム系の背景を持ってたんやけど、最終的にはかなりヘレニズム化されて、ポルフュリオスっていうあだ名を取ったんや。これは「紫色の衣を着た者」みたいな意味で、紫はローマ帝国の皇帝の色やったんやな。
ギリシャ語では名前は「ポルフュリオス」やったんやけど、最終的にポルフュリオスはローマに旅をして、そこで偉大なプロティノスの生徒になったんや。彼自身の言葉を信じるなら、最終的には一番親しい、主要な生徒になったらしいで。
実際、ポルフュリオスは、プロティノスと新プラトン主義学派の残存する遺産にとって中心的な存在なんや。彼こそが、プロティノスの多くの著作を収集して編纂し、今日私たちが知ってる『エンネアデス』にしたんやからな。
重要なことに、ポルフュリオスは『プロティノス伝』も書いたんや。これは師の伝記で、『エンネアデス』の一種の序文として添付されてて、今でもプロティノスの生涯に関する主要な情報源になってるんやで。
この作品の中で、ポルフュリオス自身についての情報も得られるんや。例えば、彼は時々ひどい鬱に悩まされてたらしいんや。ある時、彼が自分の精神状態について先生のプロティノスに話したんやけど、ひどく落ち込んでるって言うたんや。
プロティノスは基本的に、休暇に行く必要があるって言うたんやな。「新しい景色が必要や。シチリアにでも行ってみたら?」って感じで、要するに「休暇に行ったら気分が良くなるで」って言うたんや。
ポルフュリオスのいろんな著作を見ると、彼が禁欲主義をめっちゃ真剣に捉えてたのがわかるんや。実際、ポルフュリオスは、プラトン主義の文脈の中でも、禁欲的なライフスタイルや考え方に関して異常なほど極端やったんやで。
確かに、プラトン主義は体の欲望から離れて、魂の知的な現実に集中すべきやって教えてたんやけど、普通はこの観想と世界への積極的な参加のバランスを取るもんやったんや。
でも、ポルフュリオスの場合は、純粋さへのある種の神経質なこだわりが見られるんや。食事から性行為まで、体に関するあらゆる形の関与をできるだけ避けるべきやって考えてたんやな。これは、魂と知性を物質的なものすべてから浄化するためやったんやけど、彼はそういうものを何か不純で汚いもんとして見てたみたいやな。
これはプロティノスの見方とは違うんや。物質世界について、これはグノーシス主義やないってことを強調しておかなあかんな。プロティノスはグノーシス主義者を批判してたんや。他のことと一緒に、物質世界に対する否定的な見方を批判してたんやで。
プロティノスは物理的な世界を、ノエティックな世界やプラトンのイデアの美しい反映として見てたんや。確かにノエティックな現実よりも低いレベルにあるとは考えてたけど、それでも物理的な世界にはある種の高貴さがあると考えてたんやな。
ポルフュリオスもプロティノスに同意すると思うんやけど、彼の著作を見ると、不純さにもっと取り憑かれてたみたいやな。体の欲求や欲望、感覚的な喜びや経験、こういうものが何か不純で汚いもんやって考えてたんやろうな。ポルフュリオスは、プロティノスよりもずっと極端にこういうものを避けようとしてたみたいやで。
ポルフュリオスがこんなに極端な禁欲主義者やった理由はいろいろ考えられるんや。一つは、彼が鬱とかに苦しんでたって言うたやろ。一般的に精神的な健康の問題を抱えてたんかもしれへんな。
もしかしたら、ただ単に感情的にもっと敏感な人やったんかもしれへん。欲望や感情をコントロールするのが難しかったんやろうか。だから、不純やと考えるもので、自分に強く影響するものすべてから離れるために、もっと厳しい禁欲的なライフスタイルを強いられたんかもしれへんな。これが一つの理由かもしれへん。
もう一つの説明としては、この時期にキリスト教の人気と広がりが増してきたことかもしれへんな。キリスト教はもっと極端な禁欲主義と世俗放棄の性格を持ってたんやで。ポルフュリオスは、ある意味でキリスト教と競争するために、もっと厳しい禁欲主義を取り入れたんかもしれへんな。
いずれにせよ、ポルフュリオスはいくつかの重要で意義深い哲学の著作を書いたんや。その中のいくつかは今日まで残っててな。
キリスト教の話が出たけど、彼の最も有名な作品の一つが、この新しい宗教を直接批判した『キリスト教徒に反対して』っていう本なんや。これは古代におけるキリスト教への最も重要で痛烈な攻撃の一つやで。断片的にしか残ってへんけど、今日でもめっちゃ興味深い読み物やな。
他にもたくさんの作品があるんやけど、今日の議論にとって特に関係あるのは、『動物を食べることを控えることについて』っていう論文なんや。ラテン語では『デ・アブスティネンティア』って呼ばれてて、短く『アブスティネンティア』とも言われるんやで。
この文章は、彼の哲学者の友人カストリキウスへの手紙の形を取ってるんやけど、基本的になぜベジタリアンであるべきか、そして動物の生贄が道徳的にも形而上学的にも間違ってるかを主張することに捧げられてるんや。
歴史的に見て、肉の消費や動物への暴力に反対する議論としては、この作品は今まで書かれた中で最も重要なものの一つやな。もちろん、その時代のものやから今の時代には合わへん部分もあるんやけど、その主要な議論のいくつかは今でも関係があって、今でも使われてるんやで。
さっき言うたように、この作品は友人への手紙の形を取ってるんや。カストリキウスっていう同じ哲学者の友人に宛てたもので、彼はなんらかの理由で長い間ベジタリアンやったのに、また肉を食べるようになったみたいなんや。
4つの本、つまりセクションで構成されてて(最後のセクションの終わりは残念ながら失われてしまったんやけどな)、ポルフュリオスはまずストア派やエピクロス派を含むいくつかの学派からの肉を食べることや動物の生贄を支持する議論をいくつか提示するんや。
そして、それに対する反論や反駁を提示するんやけど、しばしば他の初期の哲学者たちの言葉を引用しながらやってるんやで。
これらの議論は基本的に、倫理的なもの、禁欲的なもの、そして形而上学的なものに分けられるんやけど、よくこれらは重なり合ってることもあるんやで。
第1巻は主に肉を食べることを支持する議論を提示することに捧げられてて、これらはその後反駁されることになるんやけど、彼はまた新プラトン主義的な世界観に基づいた、ベジタリアン食を支持する禁欲的あるいは哲学的な理由についても議論してるんや。
彼らの新プラトン主義的な世界観によると、人間の本当の故郷は非物質的なノエティックな世界、つまり「ヌース」にあるんやで。知性や精神と一緒にな。
彼らはグノーシス主義者のような物理的な世界に対する過激な否定的見方は拒否するんやけど、それでも物理的な世界は存在の連鎖の一番下にあると考えられてて、「ヌース」や「一者」、つまり神的な世界から最も遠いところにあるって考えられてたんや。
ある意味では、神的なものから離れた場所はないんやで。すべてのものは「ヌース」の中で起こってて、今この瞬間もそこにいるんやからな。でも、私たちは物理的な世界と人間の体によって誤解させられてしまうんや。これが私たちを物質的なものへ、混乱や二元性へと引っ張り下ろすんやな。
真のプラトン主義者、つまり哲学に捧げられた人生を選んだ人は(ちなみに、この時代の哲学は単に現実や世界についての議論を思索するだけやなかったってことを覚えておいてな。哲学は実践や生き方、食べ方を含む全体的な生き方やったんや。だから、哲学と宗教の境界線はほとんど存在せえへんかったんやで)、できるだけこの世界の体の欲望や喜びを放棄することが求められるんや。
特にポルフュリオスのような極端に禁欲的な視点では、これが強調されるんやな。
このことを念頭に置いて、肉を食べることは一種の贅沢、特にこの時代にはそう見なされてたんや。だから、肉を控えることは、神的なものと自分の真の自己と一体化したいと思うなら、ポルフュリオスが私たちに求める禁欲的な哲学的生活の重要な部分やったんやで。
体の生活にあんまり参加しすぎたらあかんのや。ポルフュリオスはこう言うてるんや:
「本当の自己への回帰以外に何もないんや。本当の自己との結合以外に何もない。そして、本当の自己は知性なんや。だから、最終的な目標は知性に従って生きることなんや。」
私たちの目標は、物質を超越した神のようになることやから、物質的なものから離れて、私たちの真の内なる現実を観想することで、それを模倣せなあかんのや。
これには肉を控えることも含まれるんや。ポルフュリオスによると、肉は消化に悪いだけやなく、私たちの動物的な性質を増大させるんやで。それに、すぐに探っていく倫理的な理由もあるんやけどな。
彼はこう言うてるんや:
「率直に言うて、何も隠さへんけど、私たちの目的を達成するには、いわば神に釘付けになって、体と体から来る魂の快楽的な感情の釘を外すしかないんや。安全は講義を聞くだけやなく、行動によってもたらされるんや。」
「神と親しくなるのは可能やないんや。個々の神々の一人とさえ、ましてや全てを超越し、非物質的な性質よりも高い唯一の神とはな。どんなライフスタイルでもええっていうわけやないんや。特に肉食はあかんで。」
「たとえ素晴らしい性質を持ってて、純粋で聖なる生活を送ってても、あらゆる種類の魂と体の浄化をしても、神を意識するに値するようになるのは難しいんや。」
ポルフュリオスは、肉を控えるように読者に強く勧める時、特に哲学者の人生を選んだ人、つまり自分の真の神的な自己に戻りたいと願う人に話しかけてるってことを明確にしてるんやで。
運動選手や重労働者みたいな人たち、少なくともこの時代には確かに良いパフォーマンスを発揮するために肉が必要やった人たちについては、状況が全然違うんやな。今はもちろん状況が変わってるけどな。
この特定の観点は、彼の見方や彼が言うてることの全体像をよりよく理解するために重要やけど、それでも彼が挙げてる議論の多くは、今でもかなり関係があるんや。
現代の読者にとっては、おそらく彼の倫理的な議論が最も響くんやないかな。これは動物自身の権利について語ってるからや。動物を傷つけたり食べたりすることが、動物自身の価値に基づいて道徳的に正しいかどうかを問うてるんやで。
特に第3巻がこの議論に捧げられてて、基本的に「正義は人間以外の動物にも適用されるべきか?」って問うてるんや。だから、動物を殺して食べることは正当化されるのかってことやな。
議論の核心は、理性の問題なんや。動物は理性的な生き物なんやろうか?言い換えれば、動物には「ロゴス」(理性、言葉)があるんやろうか?
ストア派を含む多くの人は、動物には理性がない、だから根本的に人間とは違うって言うんや。だから、人間と同じ方法で正義を受ける価値がないってことになるんやな。
この論理によると、動物は人間の利益のために自由に使えるんや。労働に使ったり、食べたりしても構わへんってことやな。だって、動物は理性的な動物やないから、人間同士に適用するような正義を受ける価値がないってことになるんやで。
でも、ポルフュリオスはこれに同意せえへんのや。その代わりに、動物には確かに理性的な魂があると主張するんや。人間ほど理性的やないかもしれへんけどな。
彼はこう言うてるんや:
「動物は互いに何かを教え合うし、人間からも教わるんや。動物には記憶力があるんやで。これは理性や知恵を獲得する上でめっちゃ重要なんや。」
「動物にも悪徳や恨みがあるんや。人間ほど溢れ出てへんかもしれへんけどな。」
「群れで生活する動物が互いに正義を守ってるのを知らん人おるやろか。アリもミツバチも、そういう生き物はみんなそうやで。」
「メスのキジバトが示す夫婦の貞節を聞いたことない人おるやろか。浮気相手を見つけたら、そいつを殺してまうんやで。」
「コウノトリが親に示す正義を聞いたことない人おるやろか。」
彼はたくさんの議論や例を挙げていって、動物が神々や古代の人々から賞賛されてきたことも含めて、こんな結論に達するんや:
「これらの議論は、動物が理性的やってことを示してるんや。ほとんどの動物では、ロゴスは不完全かもしれへんけど、確実に完全に欠けてるわけやないんや。」
「だから、もし私たちの反対者が言うように、正義が理性的な存在に適用されるんやったら、なんで私たちの正義が動物にも適用されへんのやろか?」
これは、書かれた時代や場所を考えると、めっちゃ深遠な議論やで。基本的に、動物の感情や幸福を、動物を傷つけることに反対する議論として指摘してるんやからな。
彼はこう言うて、最も強烈な一撃を与えるんや:
「動物の性質は、知覚を持ち、苦痛を感じ、恐れを感じ、傷つくことやから、だから傷つけられるんや。」
動物の感情には価値があるんやって、はっきりと区別してるんやで。例えば植物との違いもこう説明してるんや:
「植物には知覚がないから、何も異質なものや悪いものはないんや。何も害や不正やないんや。知覚こそが、すべての適切さと疎外の起源なんや。」
動物を殺すのが正当化されるのは、自己防衛の時だけやって彼は言うてるんや。
これは本質的に、今日でも多くのベジタリアンやビーガンの代表者が使う同じ議論やな。3世紀の文章の中でこんな議論が展開されてるのを見るのは、本当に興味深いことやで。
でも、これにはすべて形而上学的な意味合いもあるんや。さっきの議論を覚えてるやろか。神に近づきたいなら神のようになる必要があって、それには物質的なものにできるだけ関わらんようにすることが含まれるんやって。
これが、動物の生贄についての議論へと自然につながっていくんや。これが第2巻の主なトピックなんやで。
彼はこう言うてるんや:
「でも、人々はまだ困惑してるかもしれへんな。なんで私たちは節制を神聖さとして数えるんやろか。羊や牛を生贄に捧げて、これを神聖で神々に喜ばれる儀式やと考えてるのに。」
「これらの問題の解決には長い議論が必要やから、生贄の問題は新しく始めなあかんな。」
さっき言うたように、そしてポルフュリオス自身も暗示してるように、動物の生贄は古代ヘレニズム世界の宗教的な儀式の中心的で非常に重要な部分やったんや。神々と人間の良好な関係を維持するための重要な側面やったんやで。
じゃあ、どうやって動物を食べたり、殺したり、傷つけたりすることを控えることが神聖さの印になるんやろか。
驚くべきことに、ポルフュリオスは動物の生贄が道徳的に間違ってるだけやなく、形而上学的な意味でも無意味やって主張するんや。
この議論は、新プラトン主義哲学の中心的な議論や特徴へと私たちを導いていくんやで。
ポルフュリオスによると、動物の生贄は実は古い真のヘレニズム宗教の伝統の一種の歪みなんや。人々が動物を生贄に捧げ始めた唯一の理由は、彼によれば、さまざまな危機のせいやったんやって。
人々は危機の時期に、これらの困難を解決しようとして動物の生贄に頼ったんやな。
実際、動物の生贄は彼の新プラトン主義の形では意味をなさへんのや。神々は非物質的で、知的で超知的な原理や存在なんや。彼らは物質的な捧げ物を必要としてへんし、興味もないんや。だって、物質を超越してるからな。
神に肉のようなものを捧げるのは、ポルフュリオスにとってはほとんど侮辱的なことやったんや。彼は、異なる神的な現実に向けて捧げるべき適切な形の生贄について、かなり長い段落を含めてるんやで。
彼はこう言うてるんや:
「だから、私たちも生贄を捧げるんや。でも、賢い人が言うたように、異なる力に異なる生贄を捧げるんやで。すべてを支配する神には、感覚で知覚できるものは何も捧げへんのや。燃やしたり言葉で表現したりしてもな。」
「非物質的なものにとっては、物質的なものはすべて不純やからな。だから、言葉で表現されたロゴスさえ彼には適切やないんや。魂の情熱に汚染された内なるロゴスもな。」
「私たちは純粋な沈黙と、彼についての純粋な思考で彼を崇拝するんや。それから、私たちは彼と結びつき、彼のようになり、私たちの高揚を神への聖なる生贄として捧げなあかんのや。これが私たちの讃美歌であり、私たちの安全なんや。」
「この生贄は、魂の無感情と神の観想によって完成されるんや。」
「彼の子孫である知性的な神々には、言葉での讃美歌を加えるべきやな。生贄は、各神が私たちに与えたもの、私たちの本質と存在を維持し、養うものからの捧げ物なんや。」
「農夫が穀物の穂や果物を捧げるように、私たちは彼らについての素晴らしい思考を捧げるんや。彼らが与えてくれたものを観想できることに感謝し、彼らが私たちと共にいて、私たちを救うために輝き出て顕現してくれることで、私たちを真の食物で養ってくれることに感謝するんや。」
動物の生贄を捧げ物として望む唯一の存在は、「ダイモーン」なんや。これは神々と人間の間に存在する、道徳的に曖昧な低いレベルの存在なんや。
だから、キリスト教の悪魔の概念とはかなり違うんやで。たとえ語源的には同じ言葉かもしれへんけどな。
特に貪欲で悪意のある「ダイモーン」が神々のふりをして、物質的で肉体的な捧げ物を受け取ろうとするんや。これによって、彼らは病気や飢饉などを通じて、世界にもっと混乱をもたらす力を得るんやで。
だから、これらの偽の神々に捧げ物をすることで、私たちは積極的に世界を傷つけ、ある意味で悪を広めるのを助けてるってことになるんやな。
だから、実際の神々は動物の生贄を望んでへんのや。一度に、物質的やから、相対的に(これはグノーシス主義やないってことを思い出してな)、でも相対的に知的な世界と比べると汚いんやからな。
知性的な神々がおるんやけど、これは神話や宗教の用語で言えば、おそらくほとんどの神々のパンテオン、つまり神々の集まりに当たるんやろうな。知性的な神々には、私たちは讃美歌や賞賛の言葉を捧げるんや。
そして、大文字のGの神、つまり最高の神には、讃美歌や言葉でさえ正義を行えへんのや。
ポルフュリオスによると、私たちが捧げられる唯一のものは、自分自身を捧げることなんや。自分自身を観想し、神のようになり、神と一体化することやな。
プロティノスの「一者」との合一についてのアイデアから推測すると、ある意味で消滅すること、「一者」の中に、神の中に消えてなくなることさえも含まれるんやないかな。
これが、彼らがここで暗示してる最高の神への生贄の形のように思えるんや。
動物の生贄や捧げ物を望む唯一の存在は「ダイモーン」なんや。彼らは本物の神やないんやで。神のふりをしてるだけで、実際にはほとんどが貪欲で悪意のある存在なんや。これがポルフュリオスの主張やな。
これはもちろんめっちゃ興味深い議論やし、初期の新プラトン主義の中のもっと広い議論にもつながってるんや。
よくこの哲学学派について話す時、二つの異なる種類に分けるんやけど、一方には、言うてみればプロティノスとポルフュリオス自身の「オリジナル」の新プラトン主義があって、もう一方には、ヤンブリコスや後のプロクロスのような人々の「神秘的」な種類があるんやな。
プロティノスとポルフュリオスの新プラトン主義は、いくつかの点で特別なんや。一般的に言えば、ここでの焦点は確実に観想にあるんやで。精神と魂の深い奥底に向かって内側に向かい、より高い現実と一体化するためにな。
プロティノスとポルフュリオスは有名に、「下降せざる自己」の教義を教えたんや。私たちの魂や自己の一部が常に「ヌース」の中に、神的な世界の中にあって、私たちは今この瞬間もそこにいるってことやな。
この「下降せざる自己」への回帰と観想、そして「一者」との合一に焦点を当てることは、自然と物質世界にあまり興味を持たんようにさせたんや。
もう一度言うけど、これはグノーシス主義のように物質世界を悪とみなすわけやないんやで。でも、プロティノスとポルフュリオスの新プラトン主義では、外的な実践や儀式は確かに二の次になるんやな。
『プロティノス伝』には、有名な話があるんや。祭りの時に神々を礼拝しに行くように言われた時、この偉大な師匠はこう言うたんやて:「彼らが私のところに来るべきやで、私が彼らのところに行くんやない」って。
これは、プロティノスが宗教的な儀式や神々よりも高いものに取り組んでると考えてたことを非常にはっきりと示してるんやな。
プロティノスとポルフュリオスの新プラトン主義では、実践や儀式みたいなものはほとんどないんや。ノエティックな、つまり知的で非物質的な世界と、物質的な世界の間にはもっとはっきりとした対照があるんやで。
また、「宗教」や一般的な神々の崇拝にもずっと焦点を当ててへんのや。プロティノスは神について語り、時には「ヌース」や「一者」を神と同一視することもあるんやけど、古典的な伝統的な神々のパンテオンや、これらの神々の崇拝に関しては、ほとんど何も言うてへんのや。
彼は高い現実、個人的な観想に焦点を当ててて、外的な実践には焦点を当ててへんのやな。
さて、ポルフュリオスはプロティノスよりも宗教に興味があったんや。彼は神話や神々について語るのが好きで、他の宗教集団についても議論してるんやで。例えば、ヘブライ人、つまりユダヤ人のことはかなり好きやったんやけど、キリスト教徒のことは有名に嫌いやったんやな。
でも、彼の形而上学や哲学そのものに関しては、かなり先生のプロティノスに近いものを守ってるんや。だから、動物の生贄を形而上学的に無意味やって彼が拒否するのは、この形の新プラトン主義の自然な延長やと言えるんやな。
さて、面白いことに、これは後の学派の中でかなり重要な議論になっていくんや。偉大な新プラトン主義者のヤンブリコス(おそらくポルフュリオスの生徒やったんやけど)は、学派をかなり違う方向に導いていくことになるんや。
ヤンブリコスは逆に、動物の生贄のような儀式を支持して、実際にそれらを哲学の中心的で基本的な側面として見たんやで。彼にとっては、魂はまったく「下降せざる」もんやなかったんや。ある意味で、この低いレベルに「閉じ込められてる」みたいな感じやったんやな。
ヤンブリコスにとっては、物質的なものが現実の中でずっと重要な役割を果たしてたんや。プロティノスの二元論に対するヤンブリコスの非二元論は、多くの出版物で非常に誇張されてるんやけどな。
でも、彼にとっては、より高い状態に到達したり、祝福を受けたりするためには、「テウルギア」として知られる実践を通じて神々を呼び出す必要があったんや。
これは学派のアプローチに根本的な変化をもたらしたんやで。儀式や宗教に対する姿勢が大きく変わったんやな。これは最も有名にヤンブリコスの残された作品『神秘について』の中で表現されてるんや。
実はこの作品は、ポルフュリオスのアヌボンへの手紙への返答という形を取ってるんやで。まさにこれらのトピックが議論されてるんやな。
だから、ここで私たちは後期古代の最も熱い哲学的議論の一部を直接垣間見てるんやで。
ヤンブリコスの形の「テウルギー的」新プラトン主義は、最終的にアテネのような場所で最も好まれるようになって、プロクロスのような偉大な思想家たちに採用されていったんや。
将来のエピソードでは、テウルギーとこの特定の形や学派の新プラトン主義に完全に焦点を当てる予定やから、そのエピソードを楽しみにしといてな。
とにかく、これはポルフュリオスの有名な作品『アブスティネンティア』(節制について)についての非常に短くて簡単な議論やったんや。そして、その作品を通して、古代ヘレニズム世界におけるベジタリアニズム、動物の生贄、そして動物の権利についての問題についてのより広い議論もできたんやな。
これは本当に面白いトピックで、多分議論されるべきほど議論されてへんのやないかな。
ポルフュリオスもめっちゃ興味深い哲学者で、重要な哲学者なんやけど、彼が本来あるべきほど有名やないんかもしれへんな。プロティノスの影に隠れてしまってるんやけど、それは理解できるし、多分正当なことかもしれへん。
でも、特にこういう比較的珍しいことについて書いた作品、例えば動物について、動物を殺したり食べたりしないことについて書いたこの作品のような、彼の著作を忘れたらあかんのや。
古代からのこのテキストは本当に面白くて興味深いもんやと思うんや。ベジタリアニズムや動物の生贄についての議論だけやなく、形而上学や新プラトン主義の非常に基本的な哲学的アイデアについての、もっと広い議論についても多くのことを教えてくれるんやで。
新プラトン主義は、繰り返しになるけど、歴史上最も重要で影響力のある哲学学派の一つやからな。
このトピックについての、また短めやけど議論を楽しんでもらえたらええなあ。これに似たようなエピソード、宗教、哲学、神秘主義についてのトピックをもっと見たいって人は、今後のエピソードを楽しみにしといてな。将来のエピソードでこれについてもっと議論するのを楽しみにしてるで。
いつもの通り、このチャンネルを支えてくれてるパトロンの皆さんに特別な感謝を捧げたいと思うんや。誰かがパトロンになってくれたらめっちゃ嬉しいんやで。
みんな知ってるように、アルゴリズムやYouTubeのゲームはめっちゃ不安定で、予算を立てたり、ただ視聴回数やAdSenseだけで安定した収入を維持するのは難しいんや。だから、Patreonで支援してくれるのが、このチャンネルをサポートする一番ええ方法なんやで。説明欄にリンクを置いとくから。
一回限りの寄付をしたい人は、PayPalでもできるで。それがええっていう人もおるかもしれへんしな。
最近「Get All Stink」っていう新しい曲をリリースしたってことをもう一度思い出してほしいんや。素晴らしい反応をもらってて、本当にみんなありがとうな。Spotifyやその他のストリーミングプラットフォームで聴けるし、音楽に捧げた私のもう一つのチャンネル、PH Palmでも聴けるで。
このチャンネルでは、ここで宗教について話すのと同じように音楽について話してるんや。だから、私からのもっとコンテンツを見たい人は、そのチャンネルもチェックしてみてな。
私の活動を最新の状態で知りたい人は、私のソーシャルメディアもチェックできるで。
とりあえず今回はこれで終わりや。このビデオを見てくれてありがとう。また次回に会おな。