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改題・随想(老媼茶話とにっかり青江)

老媼茶話ろうおうさわ』を読んでいたら、面白い話があった。
現代語訳する。

化け仏

 浅野弾正小弼長政あさのだんじょうしょうひつながまさ歩士かちが伊勢に使いに行く途中で、墓地があった。
 歩士が夜半ごろにこの場所を通った時、変化へんげの者が現れた。
 それは、燃えあがる火焔かえん後光ごこうを負った不動明王の姿をしていた。
 炎のかがやきに照らされるその顔が、にかりにかりと歯をいて笑いながら歩士の方に来る。
 歩士は刀を抜き、駆け寄ってこの化物を斬った。
 たちまち火のかがやきは消え失せて闇になった。
 それから歩士は伊勢に行き、翌日、帰り道に墓地のところを見ると、こけむした石仏の頭から血が流れて、切先外きっさきはずれに浅く斬った跡があった。
 これを持って帰って人に話そうにも、本当のことらしくないので、親しい友にひそかに話してその刀を見せると、やいばには血がついて、石の引き目はあるが、は欠けていない。
 この話を聞いた浅野長政が秀吉公に御伝えすると、秀吉公は、その刀を持ってこさせて御覧になった。備中青江びっちゅうあおえの作で、長さは弐尺五寸にしゃくごすん
「これは名物めいぶつである」とおおせになり、にかりと異名をつけて秘蔵なさった。
 その刀はその後、京極若狭守忠高きょうごくわかさのかみただたか家に伝わった。


色々な点から興味深い、面白い話である。
それはそれとして、「にかり」「青江」といえば、あの有名な刀剣の「にっかり青江」さんのことではないだろうか。

しかし、にっかり青江さんの話といえば、有名なのはこちらである。

京極若狭守殿 ニツカリ スリ上 長壱尺九寸九分 無代
昔江州中嶋九理大夫ト云者有兄八幡山ノ邊ヲ領ス怪物有ト云十三才ノ時夜ニ入唯一人行ニ女少キ子ヲ抱来石灯籠有也其モトニテミレハ彼女ニツカリ々々ト笑子ニ向テ殿様ニイダカレイト云子来切ル女イサ我行テイダカレント云来ル又切テ立帰リ次日山中ヲ狩ミルニ外ニアヤシキコトナシ古ク苔ムシタル石塔弐ツ有首トオホヘシトコロヨク切オトシテアリ 其ノチハ怪不出ト云々表ウラニ樋中心表ニ羽柴五郎左衛門尉長 (注:長の字の上半分) ト迄有先切ル長秀ナルヘキ也

『[刀劔]名物集』(1848写) 東京国立博物館デジタルライブラリー
ページ一覧(40)

名前の由来の部分をそのまま現代語訳する。

ニツカリ

 昔、江州に、中嶋九理大夫という者がいた。その兄は八幡山はちまんやまのふもとを領地としていた。そこに化物がいるという。
 九理大夫が十三才の時、夜になってからたった一人でそこに行くと、向こうから、女が、幼い子を抱いてやって来る。
 石灯籠いしどうろうがあったという。
 そのそばまで女が来たとき、石灯籠のともに照らされて、女の顔がニッカリニッカリと笑っているのが見えた。女は子に向かって、「殿様に抱かれておいでなさい」と言う。
 子供が、九理太夫に向かって来る。
 子供を斬った。
「では、私が行って抱かれましょう」と言って、女が来る。
 女も斬った。
 そして家に帰り、次の日、山の中を探しまわってみたが、見る限り、いつもと違うところはない。
 ただ、古く苔むした石塔せきとうが二つ、その首とおぼしきところから、見事に斬り落とされていた。

 その後、化物は出なくなったという。


「首と思えし所能く切り落としてあり」という石塔は、供養塔か、あるいは墓としての石塔だろうと思う。

この話も、色々な点から興味深い。

この「殿様」という敬称が、「貴人」を指すのか「主人」を指すのか、それは「領地をもつ武士の十三才の弟」にふさわしい呼びかけなのか (詳しくない。ふさわしい可能性もあるが) 、女は誰を見ていて、なぜ子を抱いてほしかったのか、何が無念だったのか、なぜ笑っていたのか。いずれにしても「十三才」という説明によって、きゅうりだゆう (仮) は、恨まれるような罪が何もない、無関係の少年であることが暗示されているのではないだろうか。石塔は「古く苔むして」いる。

「八幡山の」の「辺」は、「山辺やまのべ」 (山のふもと) だとは思うが、そのあたりのことを調べていたら面白い記述があった。
まず、近江国の守護六角ろっかく氏の重臣伊庭いば氏の居館が八幡山にあったらしい。
そして、伊庭氏の被官ひかんに「中島」氏がいた。その中島氏は、永正十七 (1520) 年の黒橋合戦 (伊庭氏九里くのり氏らと六角氏との合戦。六角方が勝利した) において、九里方について敗れたためか「舟木」の所領を失ったという。当時の船木村は現在でいうと近江八幡市の船木町・小船木町にあたるというが、船木町の方には、八幡山のふもとが含まれているのである。
そのあたりに「中島」氏がいたのは、ただの偶然かもしれないし、何かを言える知識もないが、伝説の成立と何らかの関わりがありそうな話に感じられて面白い。

『コトバンク』より『日本歴史地名大系』(平凡社)の項目 「八幡城跡」
国立国会図書館デジタルコレクション『滋賀県八幡町史 上』157ページ


それはさておき、『老媼茶話ろうおうさわ』(1742) の中の話は、『武将感状記ぶしょうかんじょうき』(1716) からの引用のようである。
『常山紀談 : 附・武将感状記』国立国会図書館デジタルコレクション
コマ番号373/406「淺野長政の歩士變化へんげ者を切る事」
おおむねこの通りの話である。
本阿弥ほんあみ家の調査による通称『享保名物帳』(1719) の中の話とは、全く異なるようである。
さらに、『図説刀剣名物帳』(辻本 直男ただお 補注、雄山閣、1970) によれば、『佩弦斎雑著はいげんさいざっちょ』(1867) の中にも何らかの話があるようである。おそらくは『刀剣録』の方だろうが、筆者はこの本にあらゆる意味でアクセスできなかったので、残念ながらここまでである。

これは門外漢の思いつきに過ぎないが、にっかり青江の逸話は、怪異を(石を)斬れる刀の話としても、わらう怪異を斬る刀の話としても、話に魅力があって、奇談好きの心をとらえたために、広く知られてしまい、そのどこかで、話に変形や混同が起きたということはないだろうか。
それともにっかり青江さんの奇談はまだまだあるのだろうか。
強い心とにっかり青江さえあれば、どんな怪異に出くわしても大丈夫、とばかりに引っ張りだこだったのだろうか。

「名作にはかゝる希代のためし有事、あけてかそふへからす」
(刀の名作に、このような不思議なことが起こったという話は、数え切れないほどあるものだ)
とは、『老媼茶話』の赤羽随世翁あかばねずいせいおうの言葉だが、面白いことだなあと思いました(日記)。




話の色々な点からの面白さについて、もう少し書きたい。

石灯籠もまた、『国史大辞典』(吉川弘文館) によれば、「本来仏堂の前に立てて本尊に献燈する仏具」であり、「室町時代以降、祈願のために石燈籠を社寺に奉納する風も生じ」た。「庭園に石燈籠を置くことは安土桃山時代に発達した露地(茶庭)から始まった。」
ちょうど『老媼茶話』の中にこんな話がある。

酢川野幽霊

 いつ頃の話だったろう。猪苗代いなわしろ城を預かる御城代ごじょうだい何某なにがしという人が、気晴らしに酢川野すかわの河原を歩いていると、畑の中に、いかにも歳月を経て古びた灯籠がある。畑を耕している老人に訊いてみると、
「いつかの時代に、誰かが立てました灯籠ということでございます。それを知ります者はございませぬ。この灯籠を捨てる者にはたたりがあるという言い伝えがございますので、こうして畑の中にそのまま、邪魔ではございますが、仕方なく立て置いたままにしておりますのでございます。ここには昔、寺がありましたそうでございます」
 と言う。何某はそれを聞いて、
「怨霊の祟りというのは、それは人のつくりごとであろう。何にしても、苔むした灯籠なのだから、庭に置くとよかろう」
 と言って、連れていた下人に持たせて帰り、すぐに御城の庭園の、築山つきやまの植え込みに立て置かせた。
 その夜更けに、御城の御門をはげしく叩く者がある。
「おれは堀貫村の彦兵衛だ。ここを開けろ」
 と言う。門番が扉の隙間から見ると、髪をわらで束ねて、ぼろの着物に縄帯をしめた、いかにもみすぼらしい姿の村人であったので、門番は門を開かなかった。
 ややあって、彦兵衛が、
「何で門を開けないんだ」
 と言って門を飛び越え、中に入った。
 門番はすぐに彦兵衛とみ合いになり、明け方まで取っ組み合ったが、夜明けごろ、彦兵衛はどこかに行ってしまった。門番の足軽はすっかり気を失って死んだようになっていたが、人が見つけて水を飲ませ、気付け薬を与えて、ようやく正気が戻った。
 その次の夜にまた来た。
 再び門を叩き、「ここを開けろここを開けろ」と言う。別の足軽が門番をつとめていたが、いいともいかんとも答えずにいた。
 彦兵衛は腹を立て、勢いよく門を飛び越えて、御城代何某の寝ている枕辺に立って、激怒した様子で、
「あんたはどうしておれの灯籠を取ったんだ。あれはほんの形だけ残ったおれの墓だ。すぐ元に戻せ。戻せばそれでいい。戻さないと仕返ししてやる」
 何某は夢から覚め、枕もとの刀を引き抜いて斬りつけたが、彦兵衛の姿は消えてしまった。
 夜が明けて見れば庭に立てたその灯籠の笠石かさいしに刀の疵跡きずあとがあった。
 灯籠を元の所に返した後は、おかしなことは何も起こらなかったという。


フィジカルが強い。

それはさておき、この話で描かれているのはまさに、石灯籠の扱われようの変遷ではないだろうか。石灯籠を「なきあとの印 (亡き後の標) 」とすることが一般的だったかどうかは不明だが、いずれにしても、供養を願って立てたもの、強い思いのこもるもの、として当時の石灯籠を見ることは出来そうである。

あの話の中の石灯籠もまた、そのように石塔と同質のものであり、異界と山中とを結びつける怪火かいかであった、と解釈することも可能だろうか。


闇が闇であった時代には、怪異を目撃するためにも火明かりがいるらしいが、その石灯籠を灯したのは、いったい誰だったのだろう。





ここからは、この記事についての補足である。

『化け仏』で秀吉がにっかり青江を見て言った「名物」とは、「古くから由緒のある、優れた道具」のことである。

「にっかり青江」は、実在する刀であり、それを代々の家宝とした京極家が丸亀藩の藩主であったことにちなんで、現在は、香川県丸亀市が所有する文化財となっているという。人気ゲームでキャラクター化されていて有名である。筆者は最近始めた。

享保年間に、時の将軍徳川吉宗が、本阿弥家(刀剣鑑定の家柄)に命じて作らせた、刀の名物に関する調査報告書が、『享保名物帳』(1719) であるといわれていて、この記事で引用した『[刀劔]名物集』(1848写) は、その写本である。

kirikさんのこのリストにお世話になりました。どうもありがとうございます。


『老媼茶話』についてはこちら。


*Webイベント「刀剣自由研究展」に展示するため、「猪苗代」のルビを確認し、改題して再投稿しました。24.9.20


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