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改題・随想(お勉強の時間・『刀剣録』)
前回の記事は、いわば先輩のような方々から温かいコメントをいただけて、とても嬉しかった。とはいえ、刀剣のことに詳しい方々に面白がっていただけるようなポイントがあったとしたら、それは、「昨日今日入ってきた新入りの見方」というところだと思う。
見ていただけるだけでもありがたいのだから、まずは最後まで読んでいただける記事を目指そう、とは思うが、なにしろ新入りである。新入りに必要なものは、そう、お勉強である。よって今日はお勉強に関する記事です。こういう地道なものも記事にしていく所存です。
名刀にっかり青江に関する文章を読んでいく第2回。
今回は、kirik*さんに教えていただいた、前回の記事の欠けたピース、『刀剣録』(1867) の「青江」の項目を読んでいきたい。
『刀剣録』(ページ選択:19/39) 国立公文書館デジタルアーカイブ
読めない。
白文である。
恥ずかしながら漢文を読んだことがほとんどない。
むかし授業で習った程度である。
しかしこの美文字の森の中に、筆者の知りたい事が隠れているわけである。
解読しようとした努力を記事にしたい。
書き下し文を読み下し文になおすのが一番大変なところだった。
二重に訳す必要がある。
漢文を読める人は本当にすごい。
書き下し文 「乃抽刀斫之」
読み下し文 「乃ち刀を抽きて之を斫る」
拙訳 (現代語) 「そこで刀を抜いてこれを斬る」
この順に並べてある。
まずは、内容をすでに知っている話から読み、語順や文の構造を確認し、引ける辞書をすべて引いて、語の用例を検索して確認する。
筆者は、そういうことが趣味である。
“淺野長政甞使人於伊勢、其人夜遇鬼物、遍體有光、微笑而来、乃抽刀斫之、光隨滅、明日往視、有一石佛、頭有刀痕、而刃不毀缺、長政白之秀吉、秀吉取而観之曰、名刀也、吾當寶之、乃名曰珥加理、盖俚語謂笑容也、刀長二尺五寸、即青江刀、傳在京極忠高家、(碎玉話) ”
“淺野長政甞て人を伊勢に使はして、その人、夜に鬼物に遇ふ。遍く體に光有り、微笑して来る。乃ち刀を抽きて之を斫る。光隨に滅ゆ。明くる日往きて視るに、石佛一つ有り、その頭に刀痕有り。しかれども刃缺け毀れず。長政之を秀吉に白す。秀吉之を取て観るに曰く、名刀なり、吾當に之を寶とすべし。乃ち名をば珥加理といふ。盖し俚語に笑容を謂ふなり。刀の長さは二尺五寸。即ち青江の刀、京極忠高家に傳はつて在り。(碎玉話) ”
“昔、浅野長政が伊勢に使者を出した。使者は夜、化物に遭遇した。全身が光っていて、笑顔でやって来る。そこで使者が刀を抜いて化物を斬ると、光は消えた。翌日行って見ると、ひとつの石仏があり、その頭に刀傷がついていたが、刀の刃は欠けていない。この話を長政は秀吉に申し伝えた。秀吉はこの刀を取り寄せて見て言った。「これは名刀である。我が宝としよう。」その刀の名は珥加理という。おそらく、世俗に笑い顔を表す言葉であろう。刀の長さは二尺五寸。それは青江の刀であり、京極忠高家に伝わっている。(碎玉話) ”
細かい描写をすべて省くと、残るものは発光する笑い顔。夜道で遭遇したくはないが、あたかも別の話のようでもある。
大意程度の訳ではあるが、元の話を知っているおかげで、これが、要約だけではなく、著者の佩弦斎先生の考察も加わった文章であることが分かる。
次に、比較的簡単そうで短い文章を読む。
“志津嶽之戦、丹羽長秀将長束正家擒柴田勝家長子國丸、献其佩刀青江於秀吉、秀吉賜之長秀子長重、長二尺三寸餘、(松府重器譜) 青江備中青江剣工、以安次為始祖、(古刀銘鑑) ”
“志津嶽の戦にて、丹羽長秀の将長束正家、柴田勝家の長子國丸を擒へて、その佩刀青江を秀吉に献ず。秀吉之を長秀の子長重に賜ふ。長さ二尺三寸余。(松府重器譜) 青江は備中の青江なる剣工、安次を以て始祖と為す。(古刀銘鑑) ”
“賤ケ岳の戦いにおいて、丹羽長秀の将長束正家は、柴田勝家の長子國丸を捕らえて、その佩刀の青江を秀吉に献上した。秀吉はこれを長秀の子の長重に与えた。その長さは二尺三寸余。(松府重器譜) 青江は備中の青江という刀鍛冶、その始祖は安次である。(古刀銘鑑) ”
「志津嶽」の話。
賤ケ岳の戦いにおいて、丹羽長秀が、柴田勝家の子勝久からにっかり青江を獲得したという説がある (『京極家重代珥加理刀之記録稿』(1918) ) 。
上記の「志津嶽」の話は、その時の話のように読める。
この「青江」という項目には、四つの段落が並んでいて、その順は、
「志津嶽」、「淺野長政」、「大坂之役」、「備中之水」である。
これらは「青江」に関する四つの話であり、関連のある事柄は、上記のように同じ段落にまとめられている。
佩弦斎先生は、『名物帳』で京極家のニツカリに “羽柴五郎左衛門尉長 (注:長の字の上半分) ト迄有” とあるのを御存知だったと思うが、「志津嶽」と「淺野長政」の段落が分かれているのだなあと思う。
後はもう、順序通りに読んでいく。
“大坂之役、井伊直孝驍将庵原助右衛門獲木村重成、謂安藤長三郎曰、大坂滅則天下無復兵革、吾當成卿名、乃以首級及佩刀授之、安藤献之 東照公、公賜青江刀、(武家閒談) 重成刀長二尺三寸五分、古備前刀也、銘曰道芝露、(駿話本別集) ”
“大坂之役にて、井伊直孝の驍将庵原助右衛門、木村重成を獲て、安藤長三郎に謂ひて曰く、大坂滅べば則ち天下に復兵革無し、吾當に卿の名を成すべし。乃ち首級及び佩刀をもって之を授く。安藤之を東照公に献ず。公は青江刀を賜ふ。(武家閒談) 重成の刀は長二尺三寸五分、古備前刀なり、銘に曰く道芝露。(駿話本別集) ”
“大坂夏の陣で、井伊直孝の勇将庵原助右衛門は、木村重成を捕らえて、安藤長三郎にこう言った。「大坂がほろべばもう天下に戦は起こらぬ。吾が貴殿に手柄を立てさせよう。」そして重成の首級と佩刀を安藤に与えた。安藤はそれを家康に献じた。褒美として家康は安藤に青江の刀を与えた。(武家閒談) 重成の刀は長さ二尺三寸五分、古備前刀であった。その銘は道芝露という。(駿話本別集) ”
「東照公」の上が一字空いているのは、闕字というものらしい。
「本来敬意をもって行頭に置くべき称号を、文の都合でやむを得ず下の位置に置いてしまいましたが、敬意をもって称号の上に空白を置いておくので御容赦ください」というような雰囲気の、敬意を払う時のルールである。
『駿国雑志』(1843) によると、この青江刀は “五代青江と云御腰物” らしい。
(『駿国雑志』(ページ選択:20/58) 国立公文書館デジタルアーカイブ )
“備中之水、名青江者不一、有池、有井、有谿流、(備中集成) 疑方言謂水之清者為青江也、良工淬刀剣、必用水之清者、古今皆然、西土龍淵剣、用龍淵水、(史記注〇漢人文有巧冶鑄干将之樸、清水淬其鋒之語、) 京師圓山有水極清澈、傳為宗近造刀時所用、(雍州府志) 鎌倉正宗宅址有井曰上金水、造刀者多用之、(鎌倉物語) 青江盖此類也、”
“備中の水に、青江の名は一つならず、池あり、井あり、谿流あり。(備中集成) 疑ふらくは方言に水の清きを青江と為して謂ふなり。良工は刀剣を淬ぐに、必ず水の清きを用ゆ。古今皆然り。西土の龍淵剣は龍淵の水を用ゆる。(史記注〇巧に干将の樸を冶鑄して、清水をもって其鋒を淬ぐの語、漢人の文に有り) 京師圓山に極めて清澈なる水あり、宗近の造刀の時に所用を為すと傳れり。(雍州府志) 鎌倉の正宗宅址に井ありて曰く上金水なり、造刀はこれを多く用ゆ。(鎌倉物語) 青江も盖し此類なり。”
“備中の水として、青江の名がついているものは一つだけではない。池もあるし、井戸もあるし、渓流もある。(備中集成) おそらくは土地の言葉で、水が清いことを指して青江というのであろう。腕の良い刀鍛冶は刀剣に焼き入れをする時、必ず清浄な水を用いる。今も昔も、皆、そうである。西土の龍淵剣は、龍淵の水を用いて造った剣である。(注:漢の歴史書にも、「巧みに干将 (鋭利な刀剣) の素材を精錬して形づくり、清水でその剣に焼き入れをする」とある。) 京師の円山には極めて澄みきった水があり、宗近が刀を造る時に用いたと伝わっている。(雍州府志) 鎌倉の正宗の屋敷跡に井戸があって、その水は上金水なのだといい、刀を造る時にはその水を多く用いた。(鎌倉物語) 青江もおそらくこの類なのであろう。”
宗近の伝説が残る井戸はいくつかあるというが、『雍州府志』(1686) で "山下ニ吉水有リ … 此ノ水至テ清冷也、相傳フ三條小鍛冶宗近刀ヲ製ル日此ノ水ニ淬ト云フ" といわれているのは、安養寺の「吉水」の井である。
(『雍州府志』(ページ選択:17/54) 国立公文書館デジタルアーカイブ )
また、文中の「注」は『漢書』王褒伝(巻六四下)からの引用らしい。
“及至巧冶鑄干将之樸、清水淬其鋒”が原文であり、焼き入れのことをいっているらしい。
“清水淬其鋒” で検索すると、『王褒「聖主得賢臣頌」について』と、『錫青銅の熱処理について』が出てくる。
すごい。
今回は、『刀剣録 虎』の、「青江」の項目を読んだ。
せっかくなので他にも何か関連する文章はないかなと探したところ、上巻の『刀剣録 龍』の方に、「青江剣」という項目があった。
こちらも読んでいきたい。
『刀剣録』(ページ選択:13/40) 国立公文書館デジタルアーカイブ
“青江剣
後醍醐帝自隠岐幸船上、適備中青江剣工夢神語之曰、天子将用我剣、汝爲我造剣、工異之、乃造剣、持至船上、會 帝取大仙寺寶剣佩之、乃送其剣於大仙寺、賞工遣之、(伯耆巻) ”
いったい何の話だろうか。
「後醍醐帝、隠岐より船上に幸す」とあるから、隠岐脱出の話だろうか。
話の内容がわからない時は、話の背景を調べるしかない。
当時、後醍醐天皇が置かれていた状況は、以下の通りである。
元弘元(1331)年
鎌倉幕府を敵に回して、後醍醐天皇は山城国笠置山の山上、笠置寺で挙兵するが、敗れて幕府軍に捕らえられる。(元弘の乱)
元弘二(1332)年
幕府が後醍醐天皇を隠岐島に流す。
元弘三(1333)年
隠岐を脱出した後醍醐天皇は、伯耆国の豪族名和長年に迎えられ、船上山の山上の寺に拠って、再び挙兵する。後醍醐天皇を追ってきた隠岐守護の佐々木清高ら三千余騎に、船上山の合戦で圧勝し、蜂起に成功した後醍醐天皇だったが、その後、京都六波羅攻めの軍勢が劣勢を強いられているとの報が、船上山の後醍醐天皇のもとに届く。
はたして後醍醐天皇方は六波羅を攻め落とせるのか。
後醍醐天皇は再び京都に戻れるのか。
その頃の話である。
引用元であろう『伯耆之巻』(近世初頭) から、「青江剣」にいたるまでの出来事を要約する。
(『伯耆之巻』(コマ番号:20/66) 国立国会図書館デジタルコレクション )
四月一日、大仙寺で、後醍醐天皇が、「かくかくしかじかの特徴を備えた剣がここにあるはずなので持ってくるように」と命令する。僧侶たちは寺の中を探し回るが、かくかくしかじかの剣はない。似た剣を差し出しても後醍醐天皇は納得しない。ないと報告しても後醍醐天皇は納得しない。ないものを探し回る僧侶たちは困りはてるが、ついに、本尊の仏像の膝の下に、いったいどれほど昔からあったものか、御剣を見つける。きっとこの剣であろう、報告しようと喜んでいるところへ、備中の青江という刀鍛冶がやって来る。
ここからが「青江の剣」に引用される話である。
現代語訳する。
“その時、備中の青江という刀鍛冶がやってきて言った。
「大仙権現の夢のお告げがありました。夢で私に仰ることには、『我が剣を船上山の帝に持たせねばならなくなった。その代わりの剣として、長さ一尺九寸の剣を造って我に供えよ。そしてその剣よりも五分長い剣を造って、船上山の帝にお出しせよ』とのお告げでございましたので、その通りに造って持ってまいりました」
ちょうど御剣を見つけ出したその時に青江がやってきたので、僧侶たちは不思議に思い、青江が造ってきた剣と御剣とを比べてみると、何の違いもない。これはまことに権現の御託宣であると頼もしく思って、僧侶たちは、御剣があった場所に代わりの剣を奉納し、御剣と、青江の剣と、両方を持って帝の御前に参上した。
帝は、「まさにこの剣である」と仰せになった。
いかなるお告げだったのであろうか、不思議なる出来事であった。
青江という刀鍛冶は、帝より恩賞をいただいた。”
やはり、難しい話である。しかも、剣の数が増えた。
話中で暗示されているのは、こういうことだろうか、つまり、後醍醐天皇の御意は大仙権現の神意と通じている。天子の御心が天の御心に通じているのだから、後醍醐天皇こそが正当な天子であり、正義は後醍醐天皇方にある。我らは必ず勝てる――と、この時僧侶たち (僧兵たち) は考えている。あるいは、考えたがっている。
『伯耆之巻』では、この青江の話の直後に六波羅陥落が置かれ、後醍醐天皇はめでたく京都に戻り、その後もいろいろあるが、名和一族の忠義が記されて終わる。
以上の話をふまえて訳すと、こうなる。
“青江剣
後醍醐帝自隠岐幸船上、適備中青江剣工夢神語之曰、天子将用我剣、汝爲我造剣、工異之、乃造剣、持至船上、會 帝取大仙寺寶剣佩之、乃送其剣於大仙寺、賞工遣之、(伯耆巻) ”
“後醍醐帝隠岐より船上に幸す。適備中青江の剣工の夢に神の語りて曰く、天子将に我が剣を用いんとす、汝我が為に剣を造れ。工これを異とし、乃ち剣を作り、持して船上に至る。會帝、大仙寺の寶剣を取てこれを佩く。乃ちその剣を大仙寺に送り、工を賞めてこれを遣はす。(伯耆巻) ”
“後醍醐帝は隠岐から船上山へとお行きになった。はからずも備中青江の刀鍛冶の夢に神が出てきてこう言った、「帝が我が剣を使おうとしている。お前が我が剣を造るのだ。」刀鍛冶はこの夢を不思議に思って、夢で言われた通りの剣を造り、船上山へと持って行った。ちょうどその時後醍醐帝は、大仙寺の宝剣をお佩きになっていた。それで帝は青江の剣を大仙寺にお送りになり、刀鍛冶は帝のお褒めをいただいて帰った。(伯耆巻) ”
帝と青江の刀鍛冶といえば、御番鍛冶である。
貞次、恒次、次家が後鳥羽上皇の御番鍛冶に選ばれている。
『増訂 工芸志料』(黒川真頼、東洋文庫、1974) の巻六、「承元二年」(1208) の項目に番鍛冶のことがあるから、大体そのあたりとして、後醍醐天皇の時代はそれより百年も後である。その頃、青江の刀鍛冶と帝との距離がどれくらいのものだったか、ちょっと想像も出来ないが、夢によって神仏と帝との近さを明らかにする役割を青江の刀鍛冶が負わされているのは、少し面白い。見ようによっては、当時の刀鍛冶に対するイメージに関する事柄なのかもしれないし、その型の神話や伝説が伯耆国にあったのかもしれない。
また、後醍醐天皇と夢といえば、『太平記』の巻第三、笠置寺に拠った後醍醐天皇が自ら夢解きをして「もしこの辺に楠と謂へる武士やある」、もしかしてこの辺に楠と呼ばれる武士はいないか、と御尋ねになって楠木正成を召す場面を思い出す。夢によって結びつく、という共通点だけだが。
そういえば『刀剣録』は「慶應丁夘新鐫」(1867年新刻) とあるが、序文には「天保甲午」(1834年) とあって、その間の出来事は、アヘン戦争、黒船来航、尊王攘夷運動、倒幕運動。その頃の「後醍醐天皇」は、「倒幕」「天皇親政」の象徴として最高に再評価されていてかけまくもかしこき存在だっただろうことだなあと思いました(日記)。
このような記事ではありますが、この記事もkirik*さんのお世話になって書きました。どうもありがとうございます。
*一箇所まちがいがあったので修正して再投稿しました。
『伯耆巻』 → 『伯耆之巻』
*Webイベント「刀剣自由研究展」に展示するため、改題して再投稿しました。24.9.20
最後に、元の文章を読みたい方もおいでかもしれないので、訳す時に写した『伯耆之巻』の文章を置いておきます。
“四月一日大仙寺に可然衆徒等を召て勅定有けるは、御在所の内しか々々成劔可有、取之進ぜよと被仰下、罷歸て奉見む、品々の剣も候けるが、如勅定なる剣ハなし、乍去とて似たる剣を取て進らす、是にてはなし、能々見て参れと勅定也、頻に求けれとも無之由を奏す、唯見て参れ能々尋ねて進せよと有勅定間進退きわまり、衆徒以ての外仰天して重ねて見る所に、御神躰の御膝の下に、何の代より納まりたりとも知らず、御剣あり、是にて渡らせ給ひけりとて悦けり、其時備中青江と申鍛冶、大仙権現の夢想あり、我剣をば船上山の君に進むべき事あり、其代に長さ一尺九寸の劔を作て進せよ、又我剣に五分まさりたる剣を作て、船上山の君に進せよと示現を蒙り、其ごとく作て参て候也と申、折節剣を求出したりける時分に参合たりければ、不思議の思をなし、青江が作りたる剣を求出したる剣にくらふれば少も不違誠権現の御託宣なりと頼敷思て、衆徒等代の剣をバ在所に籠て、求出したる剣と、青江が作りたる剣と二つ持て参りたり、是こそよと勅定ある、何なる御告にやありけん、不思議なりし事共也、鍛冶には恩賞を被下けり、”
『伯耆之巻』(コマ番号:20-21/66) 国立国会図書館デジタルコレクション