【レゼイス】牧野信一「「悪」の同意語」後半

はい、ということで(何が”ということ”なのかは分かりませんが)、読書会をはじめていきたいと思います。
私としては、お腹がいっぱいであたまがぼんやりしているのですが、まあテキトーにやっていきたいと思います。じつはこの後もまだ一仕事というほど大したことではないけど、やることがあって、その前の序奏(助走のつもりでしたがいい感じなのでのこしておきます)としてここに参加している感じです。

はあ、今回もというか前回にひきつづき「イーヴィルのシノニム」ですが、今回もくだくだしい話でした。
前回妻に「お前の母親は間男を持ってる」とちょっと痛いとこを突かれた場面で終わってたわけですが、今回はその直後かな、実家に電話をかけてなんか事務手続きだったかな、そのために帰郷するって話をしてます。なんで帰るんだっけ。

そうですね、なんか書類の処理があるみたいです。「いや、あしたの晩帰ります、いろいろ。[この句読点、変ですね]書類の方だつて私が験べなければならないでせう」とあるので。

電話に出たお母さんも「お前は何時帰るの」と言っているので、やはりもともと約束があったんでしょう。

で、帰ってきて、お父さんのことをいろいろ思い出す、という展開になります。この作品が書かれたのが1924-25年の冬、思い出されることは主に、関東大震災があってから父親が亡くなるまでの半年、つまり1923年9月1日から1924年3月(241頁
)までの出来事、って感じですかね。

「朝鮮人騒動の噂の時」って話が出て来て、びっくりしました。

たしかに! 間男の志村清親は家の前で鉢巻まいて一家伝来の日本刀をもって頑張ってるなか、父親は家の裏で布団にくるまって狸寝入りしてるってやつですね。清親は勇敢で男らしいけど、お父さんは「意久地なしの腰抜け」といわれちゃうという。

で、経緯はよくわからないけど、お父さんが生きてた時は、主人公はお母さん側についてしきりに父親を馬鹿にしていたらしい。その頃のことを書いたのが「父を売る子」「父の百ケ日前後」ということでこれは作中でも出てくる。で、今書いてるのが「その後の母と彼」というやつらしい。これはタイトルだけでお腹いっぱいというか、うじうじしていることがすでに察せられますが、主人公自身もそうらしくて残すところあと4頁弱というところで、この作品はやめてしまおうといったん決意するわけですね。

——Fの遠い幻だけが、まだ御伽噺にもならずに、夢のやうな明るさを、細く彼の胸に残してゐた。「その後の母と彼」の仕事は打ち切つて、NやNの母の空想を混ぜないFの追想をそれに換へよう——斯う思ふと、わずかな光が味へる気がした。

『牧野信一全集第二巻』、筑摩書房、2002年、250頁。

これと似たようなモチーフは直前の作品「「或る日の運動」の続き」にも出てきてました。要するに、基本えんえんぐちぐち家族と自分のことを露悪的に書いてるけど、なんとなく昔のFとの思い出を書き殴ってみた。すると、案外先輩作家に褒められた、あれでいいならまたああいう明るいのを書こうかな……みたいなことです。……今ぱらぱらめくってみたら、面白い一節がありました。

あゝいふ花やかな友達を失つてゐる此頃の自分は、因循性の写る鏡を奪はれたやうなもので、当時は少くとも鏡に写つた瞬間だけは反撥力を振ひ、秘かに「一、二、三!」とも叫んでのであるが——

同上書、194頁。

という感じで、この「反撥力」、つまり「こっちを小馬鹿にして(でもある程度の愛情をこめて)見てくる他人に対して大げさなポーズをとる」ということが、牧野にとってとっても大事なことのようです。どんよりとした主人公の頭に緊張をもたらしてくれるほとんど唯一のもののようです。
上の引用の直後でも、そういう張り合いのあった当時は、「われ吹く笛は、闇の世の戯れか」とか「黒猫を抱けば夢よ、サフランと、桐の花とにさゝやかむ」とか、すくなくとも私にとっては訳の分からない文句を歌ってポーズをきめることができたのに、いまは……という嘆きが書かれてます。

「「悪」の同意語」の後半のテーマも、同じですね。
父の生前は父を敵役にして様々なポーズをきめてた、そういうポーズと内心とのギャップを書いて小説にしてた。でも父が死んだので、今度は母を向こう側に立てて見得を切ってる。問題は、母がちゃんと悪役をやってくれない(なんか優しくしてくれる)ので、気分が乗ってこないということらしい。
なんだか何をやってるのやら、何のために書いてるのやらわからんが、まあそれでも何か書かなくてはいけない(のか他の仕事をしたくないのか知らないけれど)というのは、大変なのかもしれない。
しかも「母親が別に男をもっていた」というのも『詳説牧野信一』によると事実ではないらしいので、まあざっくばらんにいってしまえば、すごく母親に甘えているという感じ。

「何と云つても俺は親を相手にして徒らな観察を回らす時が、一番生甲斐を感ずるんだ、それより他には能はないんだ」228頁

なかなかすごいアイデンティティーである。

けっきょく自分もやはり中期のいわゆる「ギリシャ牧野」のスーパーうわ言感に惹かれていて、それなのでこの「甘え」も「うだうだ感」も許してしまえる。こうやって無駄に苦吟しつづけた結果、ああいう訳が分からないけどいい感じのものができるならそれもいい人生なのでは、と思ってしまう節がある。牧野自身、『西部劇通信』の序文で、訳の分からない短編たちを前にして、「こんなのが書けたのでここ数年生きた甲斐があった」的なことを言っていた。まあ、最後は自殺しちゃうんだけど、あれは酒が悪い。まあアルコールなしじゃ書けなかったのかもだけど……まあ、どうなんだろう。

末尾で、英英辞典”Synonyms and Antonyms”というのを引く場面が出てくる。evil で引くと、同義語の方はぜんぶ自分のこと、対義語(right とか pureとか happy とか)のほうは母や妻のことを指しているように思う。で、「その後の母と彼」を書きつづけるやる気がでる、というオチ。
つまり、なんかお母さんが優しくて悪役にできないし、そうなると自分も反抗できなくて露悪的にポーズをきめることもできないし……と困っていたけど、やっぱ自分は evil の側じゃん、どうせダメな人間なんだし無理にポーズきめなくても素でやれば evil になれるでしょ、的なこと、なのか……?

まあとりあえず、タイトルの「「悪」の同意語」というのは、noxious、deleterious、wrong、bad といった特性を持ってる自分のことです。
あ、こういう形容詞を読み上げたあとに、

彼は、気障な文学青年らしくそんなことを呟きながら、澄んだ空を見あげてゐたが

めんどくさいので自分で探してね

とあるので、こういう大げさな、しかも英語を身につけることができたから、いい感じにポーズというのか、空想を羽ばたかせることができた。で、すがすがしい気分になった。ということかしら。

ああやっぱこうやって読書会をやってみると、いいもんですね。なんか読んだときには気がつかなかったことが、分かった気がする……

最後の段落は、なんとなく evil な映画の主人公ぽくもあり、「母親がほんとはいい人で自分が甘えてるだけなことは分かってるんですよ」的な目くばせにも感じますね。

はい、これで、一時間半くらいかな、経ったので、そろそろ締めようかなと思うんですが、テキトーに面白かったところを。

・「自働電話」225、これってどんなの? 自働じゃない電話とは?
・「社の仕事」226、働いてる!
・「放埓な兄」「不良青年」230、という自己言及。そうでもなかろう。
・父の叔父も父の弟も狂気、235
・「彼は手紙は書けないんだよ」237 女性に「彼」、読み方は「あれ」?
・自分より「二つばかり年少の文学研究家」243の友人、だれだっけ?

あと、気に入った箇所を二つ。ひとつは、空っぽさ、自我の弱さ。もうひとつは、光学機械のちょっと幻想的な感じがよい。

相当の年齢に達してゐるにも関はらず彼は、幼稚を衒ふ婦のやうに姑息な心をもつてゐた。一体彼は、他人と相対してゐる時は、たゞでさへ朧気な己れの個性は悉く消滅してしまつて、鸚鵡の如くひたすら相手の気嫌を伺ふやうな心にのみなつてゐるのが常だつた。或る時は強がり、或る時は弱がり、或る時は神経質がりするが、それは悉くピエロの仮面を覆つた功利的の伴奏に他ならなかつた。自信がなくて、さういふ結果になる彼だつたから、独りの時は何の思想もない、たゞ人形の姿を持つた一個の物体に過ぎなかつた。

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基本こういう「功利的の伴奏」みたいなコミュニケーションしかできなくて、それが時々パチッとはまる、それも本音を言い合ってというのではなくてあくまでポーズなんだけど、自分も周りも一緒にテンションが上がる、みたいなのが理想なのかしら。
私も「功利的の伴奏」的コミュニケーションをしがちだし、基本空っぽなので、牧野に惹かれるんでしょうな。

 彼は、白い息を吐きながら氷つた道をコツコツ歩いてゐた。暫らく歩いて、一寸振り返つて見ると、おでん、かん酒の提灯が、煙草の火程に小さく闇の中にぽつりと止まつてゐた。——望遠鏡を、あべこべにして見ると風景は、実際の距離の二倍に遠くなつて、さながら箱庭のやうに小さく映る——独りになつた時のこの頃の彼の心境は、そのやうに熱がなく、まつたく箱庭の泥で拵へた豆人形になつてゐた。ゆるやかな波の音を耳にしながら独りで斯んな暗い道を歩いてゐると、今にも暗の中へ吸ひ込まれて煙になつてしまひさうに心細かつた。

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