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半分ブディスト
母校の大学には「インド哲学科」という学科があります。学生の時は、国文科よりインド哲学科の友人のほうが多かった。彼らから、または先生方から、仏教は「宗教」ではなく「学問」という形で教わりました。
「せっかく大学に入ったのだから、二年、三年といわずに五年、六年は勉強の時間にあてなさい」
これは、当時のインド哲学科の名誉教授金岡秀明先生のことばです。大学に五年、六年年在籍して、私が勉強したかどうかはわかりませんが、心の広い仲間や先生方と学生時代過ごしていたなぁ、と思います。そして金岡先生の授業初日のことばは、今でも心に残っています。
「私は、ブディストなので人を評価するのが苦手です。キチンと授業に出て下さい。話をしっかり聞いていただければ、全員Aを差上げます。ただ、途中退席をされることが嫌いなので、そこだけ気をつけて下さい」
なんでも、先生は、若い頃は熱血漢で、途中退席する生徒がいると、授業を中断し、その生徒をどこまでも追いかけていくような一面があったらしいです。
本当にAをくれるのかしら?と初めは半信半疑だったのですが、授業は面白かったし、レポートも特に問題がなかったようで、結果的にはAがいただけました。中庭の掲示板に貼りだされた一覧表で、自分の成績を確認したときの喜びの記憶は、何十年も昔のものいう気がしません。
そのせいなのか、私からみて、ブディストが安易に人を非難したり、俗世の事を一つ一つとりあげて批評しているのをみると、今でも複雑な気持ちになります。
最近は、そんな綺麗ごといっていられるか、という忙しい時代になってしまったのかも知れませんが。私の根底には、どこかで最終的には「人を許したい」という気持ちがあるのかもしれません。
海外で数年日本語教師をしている時も、それは変わらなかった。これは余談ですが、日本の外にでてよく聞かれたのは、「信仰」のこと。
「なむは、一体何教なの?」
実家に仏壇はあったが、仏教を「宗教」として捉えたことのない私は、当時、この答えに詰ってしまって、困りました。
「たぶん、仏教。(Maybe,Buddist)」
あとは、笑って誤魔化していたかもしれません。そしてこの答えは、いまだにはっきりしていません。
タイの大学で日本語教師をしていた頃のことだ。
「なむは、生徒の点数の付け方が甘い」
同僚のインド人の先生から注意されていました。けれども、学生時代の嬉しかった体験が私のベースに濃く残っていたため、それは仕方がなかった。ただ、振り返ってみてよくなかったこと。
「あの先生は、最終的に単位をくれるよ」
噂が、学生の間で広まってしまったこと。私からみても、さすがに単位はあげられません、という生徒たちまでが職員室に群がり、追試験が無駄に増えてしまった。休みの日に単位ほしさに人のアパートにまで、生徒が訪ねてくるなど別の意味で大変な思いもしました。日本に帰国する時、生徒たちの成績表には、半分つけ逃げのA?みたいな所があったかも……。
宗教のことは、いまだにわたしの課題です。