8/4 日記「エンタメ小説が読めない。本は読める」

最近小説が読めない。
『読めない』と宣えるほど元から読んでいたわけではないのだが、読もうとすると拒否反応が出るようになったのはここ一年くらいのことだと思う。

そして、この『読めない』というのにももう少し正確な塩梅がある。
詳しく言えば、読めないのはエンタメ小説の部類であり、一般的に言われる純文学の部類は読める。夏目漱石だったりを読んでいる。そして、評論系だったり、新書系だったりも読める。むしろ、最近は『筆者が専門研究分野を一般読者向けに分かりやすく解説してくれる本』ばかり読んでいる。(これが面白い。そしてそれらは一旦おいておく。)

ではなぜ、エンタメ小説が読めなくなったのかという問いがあるが、もう、根本的な原因を一つ考えついている。
それは上下関係である。
読者と作者とのだ。

考えたのは、『エンタメ小説と言うのはどうしても作者が上、読者が下という関係になってしまうのではないか?そして私は今、これが気に入らないのじゃないか』ということだ。

まずエンタメ小説の根本に、『奉仕』という成分があると思う。読者をもてなすことに主軸を置いた作品構造である。多かれ少なかれだ。

そういった小説の構造で読者の情動は、作者に統制されている。ジェットコースターのようなもので、乗ってしまったら起承転結の凹凸を越して、読者の興味には慣性が働く。『面白くてページを捲る手が止まらない』とはよく使われる好評の一種であるが、その読書はある種、能動から受動になっているということじゃないか。
最近の私は、そのどこかに気に食わなさを感じているらしい。
具体的には読者をもてなすための文体に行き着くと、反射的に本を閉じてしまうのだ。『巧い』小説の一ページ目を開いてみた時などによく起こる。
ではその原因はなんなのか。巧さへの嫉妬なのか、反骨心なのか。

 目覚めた時から予感があった。嵐が来る前の空気の静けさと言うか──。
 だから、私は飛び切り上等な紅茶の封を開けて、この朝を楽しむことにした。

上記は私が昔好きだったエンタメ小説作家の書き出しの、冒頭を自筆で加工したものであるのだが(原文が分からないよう粗悪に加工している)、一旦、エンタメ小説の書き出し特有の『読者を掴もう』という空気が伝われば幸いである。

なんというか最近、エンタメ小説の文体に至る所に、『黒服を着た店員に接客される直前』のような感覚を強く覚えるようになったのである。
行き過ぎた謙遜というか、高級百貨店の店員の、板についた薄笑みを感じる。
あまりに捉え方の性格が悪いが、言いたいことはその方向である。
そう言った接客の薄気味悪さには、『客を定型化する視線』という原因があると思うのだ。

より詳しく述べてみよう。
作者にとっての読者とは、必ず『不特定他者』だ。
さっきエンタメ小説の本質に、『奉仕』があるといった。
では、『不特定他者への奉仕』には、必ず『軽視』の成分が含まれてやいやしないか?という疑念があるのだ。

『素性も知らない人間のために、尽くす』という行為は、元来できない。
だから小説は往々にして読者層を設定してきた。(今まで世に流れてきたすべての創作論で腐るほど言われた、『小説を書くならターゲットを設定しろ』だ。)
それは合理的である。当てもなく誰かの性癖を狙うよりも、狙いを定めた方が誰かには当たる。そして星座占いの要領で、多くの人間は意外と『ニッチ』を共有しているから、むしろ多くの読者に刺さりやすくなる。
しかし、その合理化を突き詰めると、接客するものとされるものはどんどん対等ではなくなる。

その『狙いを定める』という行為に『巧く』という形容詞がつくまでに至った場合、先ほど言った『軽視』の感覚が私の中で発生する。

客の表情を見、服装を見、動作を見、客の概観を把握し、どういう商品を求めているのか推察することが、高級百貨店の店員の仕事だ。ここにおいて、エンタメ小説の書き手にも、似たような部分があると思う。
読者層に当たりをつけ、文体の効果を踏まえ、キャラクターの印象によって読者の期待に応える行動をさせと、展開によって好意的に裏切る。感情曲線の数学が、巧さにはあるのだろう。
しかしだ。
私は数値ではない。
顔も声も、作家と読者の関係で走りえない以上、データに傾向をつけ、『こういう読者だろう』と推察して接客するしかない。だがそれは、言い換えれば人間の数字扱いだ。
私はきっとそれが気に食わない。エンタメ小説という概念が腹立たしいのではなく、接客の公式に自分の読書が数値化され、乗せられるのが嫌なのだ。

ここで言いたいのは、エンタメが嫌いと言うわけではないのだ。エンタメ漫画も動画も、よく視聴する。ゲームだってやる。
ただ、文字にはそもそも『エンタメ』の適性がなく、むしろ『接客心理が読者に伝わりやすい』不適正があると思う。だから拒否感が生まれる。

文字には、もっと別の『適正』があるのではないか?
その適正とは、作者自身の人格の表出である。それは、文章における『思考の伝達』によって発生する。

文字を書く際、まったく自分について語っていないとしても、思考に染みついた語り手自身の歴史と言うものが、きっと表出すると思うのだ。

逆に、文章には作者の思考が必ず染みつくから、巧いエンタメの文章ほど、その裏に『計算』、もっといえば『商業主義』が滲んでしまうと思うのだ。
今の私は、その匂いに過剰反応している。

最近面白いと思った文章には全て、作者の人格がよく滲み出ていた。純文学もそうだし、評論もそうだ。書籍として、思考を文章に変え端正に伝えようとする中に、生々しく露出されるのではなく、洗練されて発露される自我と言うものがあった。作家と読者の関係は一方的で変わらないが、少なくともそれを読むのは接客されているというより、同じ地平で静聴している感覚があった。

エンタメ小説(いや、私が1ページ目を読んで反射的に閉じてしまう巧い小説)には、そういう自我(の成分も幾分かあるのだろうがそれ)よりも、張り付いた、『接客』を意図した、薄笑みが前に出てしまう。作者が奉仕者にへりくだり、そして、本質的な力関係では上側へ行ってしまう。
改めて、それは悪い事ではない。高い技術を持った作家は上である。
『軽視』とは意識過剰で、つまり『見降ろし』であって、そりゃあ上なのだから、下を見なければならない。それだけのことだ。

ただ、『エンタメにあまり向いてない文字という媒体で、エンタメをできるほど巧い作家の文章には、どうしてもその高い技術を伴った文体の裏に、計算力が滲み出てしまい、数値化されることに不服を持つ小さな自尊心の私は、気を取られて物語に入り込めない』というのが、この拒否感の原理だろと思う。

(漫画や動画では、むしろ、これを多く感じないのだ。私の鼻がくるっているのか、文字と言うものがより人格を滲みだしてしまうのか、どちらかは敢えてわからないとして置く)

あなたの文章は巧いから、私はより、文章効果と心理効果に精通したあなたの掌の上に乗りたくないと思う。これは反骨心でもあるし、劣等感でもあるし、嫉妬の問題でもあるだろう。私は文章が下手だから。

ただ、今の私は巧い文章に乗せられたいのではなく、作者の自我が洗練を伴って滲み出ている良い文章に、能動的に乗っかりたいのだ。





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