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映画「パラダイスビュー」の鍵:コンディショングリーンと沖縄の役者たち
「パラダイスビュー(特別版)」(1986)空中浮遊する火を噴くシーサー
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大阪、梅田のコマ劇場の近くでこのポスターを見た。映画のポスターだと思わなかった。バンクシーやバスキアの落書きのように何かを訴えている。言葉にできない奇妙なインパクトがあった。火を噴く沖縄の守護神シーサー。口を開け福を招き入れるはずのシーサーが口から火を噴き出している。作者は大阪アメリカ村のPEACE ON EARTH(鳥人間)や岡林信康「狂い咲き」のアルバムジャケットを描いていた黒田征太郎。
映画のパンフレットで彼は
「沖縄戦で置き去りにされて亡くなった方たちの魂が、どこにも行きようがなくて宙に浮いている、それを単刀直入に表したかったんです。あれは宙に浮いている人たちの想いのたけが吹き出ている、血なんです。血を吐くように生きている人なんて、特に日本では少ないから・・・・・。」黒田征太郎
「どこにも行きようがなくて宙に浮いている」「宙に浮いている人たちの想いのたけ」「血を吐くように生きている人」この重いテーマを、明るくPOPにユーモアすら漂わせて描いている。
誰もが受け取りやすい形で受け入れがたい現実を突きつける。やはりバスキアやバンクシーと通じる表現だ。
「パラダイスビュー」「ウンタマギルー」は、沖縄のリアルな生活や社会、伝承や風習を映画で表現したPOPアートのように思える。いつまでも古くならないし、ますます重要性を増している。
このポスターは高嶺映画を理解する鍵だ。その鍵を握るのが「コンディショングリーン」のかっちゃんとエディのような気がする。
「パラダイスビュー」境界を越えた多元的世界の群像劇
映画のタイトル「パラダイスビュー」から沖縄の癒しとか、観光地としての沖縄を期待してはいけない。観光客が求めるリフレッシュの場の沖縄ではない。沖縄戦の心の傷を抱えて生きる人々の風景だ。出演者全員に物語があり、深い意味がある。
簡単に映画の構造を説明する。
1970年代初頭、日本復帰前の沖縄、軍作業をクビになりハブ獲りをしているゴヤ家のレイシュ―(小林薫)は、毛遊び(もーあしび・沖縄の風習・歌舞を中心にした男女交際の場)でタカシップ家のナビー(小池玉緒)を妊娠させる。
しかしナビーは日本人植物学者イトー(細野晴臣)と婚約中。この出来事がゴヤ家とタカシップ家に様々な波紋を生む。
日本復帰か?米軍統治のままか?独立か?という沖縄の複雑な社会を背景に、レイシュ―の歯車が狂っていくのが主軸の物語。
この物語から村の人々の群像劇が絡まっていく。
そこに高嶺映画特有の魔術的リアリズム(淫豚草、虹豚など)が加わり…。多元的な世界が立ち上がる。
この物語の鍵となるナビーの兄マチューとミッチャーを演じるのがかっちゃんとエディだ。
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左ミッチャー(エディ)と右マチュー(かっちゃん)
ミッチャーとマチュー、ナビーの父は米兵?
そこでタカシップ家の母のモーシー(間好子)はユタの占いの勧めで日本人のイトーとの結婚を進めていた。わが子が米兵?との混血であることを恥じる母(モーシー)。古い沖縄の風習の中で妊娠する娘(ナビー)。ゴヤ家の軍作業をクビになり行き場を失ったレイシュ―。
この二つの家族に父親の影は薄い。レイシュ―の父は神隠しに遭って失踪したままなのか?タカシップ家の米兵らしき父親は、どこにいるのかわからない。
ミッチャーとマチューの苛立ちは村全体に伝染していくように不穏な空気を醸し出す。
だからレイシュ―とナビーとイトーの問題は、単純な三角関係の話ではない。アメリカと沖縄、日本の間で犠牲になる子供たちと日本復帰か、現状維持か、独立かの葛藤の間で揺れる大人たちの混沌の物語だ。
高嶺監督は、この映画を「誰が正義で誰が悪」という二元論で作っていない。日本人も米兵も敵ではない。
沖縄の人以上に琉球を理解しようとしている日本人植物学者イトー(細野晴臣)。状況描写として唐突に出てくるベトナム帰りの米兵も他の登場人物と同じように、混沌を抱えた弱い人間として描かれている。
誰もが心の奥に刺さった棘を抜く事もできず、血を流しながらつつましく生きている。
監督は様々な人々の境界をなくし多元的世界として復帰前の沖縄を描いている。だから村に存在する誰一人、蟻、犬、ハブや豚の全生物、否定も肯定もせず、あたたかなまなざしで描く。
「パラダイスビュー」風景の奥にある情感を描く
監督は「沖縄で撮るという事はスタッフもろともチルダイ(沖縄の聖なるけだるさ)のリズムの中で漂ってるみたいに撮る」と言う。
この映画の撮影を担当した(私の先生でもある)としおかたかおさんは「風景を撮る時、当時説明的なインサートカットとは呼ばなかった。風景の中にぽつんと人物がいる事で風景の意味が変わってくる。そこにいる人の想いがあって風景がある。情景と呼んでいた」と特典インタビューの中で語った。その映像の情感の深さは見るたびに新しい発見がある。
レイシュ―(小林薫)を秘かに思うチルー(戸川純)と婚約者ナビーに儀式の途中で逃げられた植物学者イトー(細野晴臣)の場面。二人の間に共通する感情の揺れを感じるこの場面が好きだ。
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チルー(戸川純)とイトー(細野晴臣)
レイシュ―(小林薫)と記念写真を撮る結婚をしない愛人ジュール(りりィ)。一見なんでもない場面に彼女の繊細な感情が揺れているように、背景の木々も揺れ始める。その風の中チルー(戸川 純)が現れ、木の影に隠れそっと覗く。感情の空気が重なり切なくなる場面。
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レイシュ―(小林薫)ジュール(りりィ)
そこに風景があり人物がいて複雑な関係があり感情が見える。表情は見えなくても繊細な感情の揺らぎを亜熱帯の空気感の中で感じる。
今回のテーマ「映画の中のかっちゃん」に沿って考えると、ナビーの毛遊びの相手が、本当にレイシュ―なのか?確かめようとして呼び出すが、結局何も言えず、ビールを飲んで海を眺めているだけの場面。二人のレイシュ―に対する複雑な感情が垣間見えて味わい深い。
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マチュー(かっちゃん)レイシュ―(小林薫)ミッチャー(エディ)
この映画で沖縄のチルダイ(沖縄の聖なるけだるさ)を体現するレイシュ―(小林薫)とマチュー(かっちゃん)はどこか通じる所があるように思う。心の奥には繊細な優しさと野性の凶暴さを秘めている。
イトーとの婚約の儀式を抜け出し母に責められるナビーを心配するマチュー(かっちゃん)。目の輝きの中に深い葛藤が見える。
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ナビ―を心配するマチュー(かっちゃん)
チルー(戸川純)が自らの体にレイシュ―(小林薫)の手を導く。彼女らしい求愛の行動。が何の反応もないレイシュ―。
チルーは※マブイ(魂)を落とした人間としてレイシュ―を認識するが、私には人間の殻を捨て野生に目覚めたレイシュ―に見える。
まるで前回の「オキナワンチルダイSP」の琉球原人(かっちゃん)のように…。
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チルーの体に手を導かれるレイシュ―(小林薫)
その証拠にこの後、※淫豚草の栽培をしている洞窟で※虹豚を追い払った後のレイシュ―(小林薫)の目も鋭く光っていた。
※マブイ:魂、精気のこと。びっくりしたり、何かの拍子に失う事がある。
マブイを失うとモノの気にとりつかれたり、神かくしに遭いやすい。
※淫豚草:海辺に生息する草で、海の大麻といわれる。豚が好んで食べるが、食べ過ぎると頭がおかしくなってしまう。
※虹豚:淫豚草を食べ過ぎた豚の病気で、神がかって頭がおかしくなる。ピンクやアオの豚はタチが悪く、人を襲う。特にマブイ(魂)を失った男は食われやすい。
淫豚草、虹豚は高嶺映画の中の映画的フィクションです。
チルダイ(だるい、けだるさ)がネガティブな意味だけではなかった(沖縄の聖なるけだるさ)ように、レイシュ―はマブイ(魂)を落とした事で人間の殻を脱ぎ捨て、琉球原人(かっちゃん)のように琉球の地と同化して、新たな生が与えられたように見える。
虹豚(にじぶた)に腹を食いちぎられて、村を彷徨うレイシュ―を最後まで助けようとし見守るのはミッチャー(エディ)とマチュー(かっちゃん)兄弟、そしてリョウスケ(平良 進)である。ミッチャーとマチュー彼らのラストの決断こそが「パラダイスビュー」の芯だと私は思う。
「パラダイスビュー」は「地獄を見た人の風景」(監督談)
コンディショングリーンと同じように私が魅了された沖縄の役者たちについて語りたい。
高嶺監督はインタビューの中で「パラダイスビュー」は「地獄を見た人の風景だ」と言った。その言葉は重い。
重いのに映画は、淡々と緩やかにユーモアを持って進んでいく。
そして実際、地獄を見てきたであろう、ゴヤ家とタカシップ家の親世代、祖父母世代を演じる沖縄の出演者が、その持ち味を過不足なく映画に引っ張りこんで素晴らしい。
ゴヤ家のレイシュ―の祖母パーパー役に沖縄芝居の女優大宣見静子さん。彼女がレイシュ―に豆腐作りの話をする場面が好きだ。祖母はこのように豆腐を作る事でずっと生きてきた。混沌とした世界で確かな人の生きた時間。この時間が奪われる事の重大さを、私はこの映画を通して知った。
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ゴヤ家の祖母パーパー役(大宣見静子)とレイシュ―(小林薫)
レイシュ―の母カマド役に平良とみさん、お葬式での彼女のセリフは、地獄を生き抜いたに違いない人の言葉として、重く心に響く。
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カマド(平良とみ)とレイシュ―(小林薫)
タカシップ家の母モーシー役の間 好子さん、今は水上小屋で暮らす盲目のフィリピナースー(フィリピン帰りのおじさん)に北村三郎さん。
フィリピナースーはモーシーの元夫。フィリピンに出稼ぎに行ったまま別の女性と家庭を持った。水上小屋での、複雑な二人の昔の事情談の場面は忘れる事が出来ない。
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フィリピナースー役(北村三郎)とモーシー役(間 好子)
イトーの儀式で古典民謡を奏でる歯医者にワダブーショーの照屋林助さん。彼が抜かなくても良い歯を抜いてしまった後に、さりげなく琉球方言で歌う「人の過ちを許せない者は成功しないよ~♪」の歌がいい。
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歯医者役(照屋林助)
独立党・武器班長リョウスケ役の平良 進さん、彼の養子らしきチョッチョイにしみじみと語る沖縄の現状と無力感。子供相手にさらりと言われているが、その分、心に刺さる。
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独立党・武器班長リョースケ役(平良 進)とチョッチョイ役(辺土名茶美)
カマド(平良とみ)の鍋修理に失敗して三線で「下千鳥(さぎちじゅやー)」を歌いだす沖縄民謡の大御所・嘉手刈林昌さん。
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鍋修理屋役(嘉手刈林昌)
どの人も受け入れがたい現実を目の前にして、時には風に漂う軽いユーモアをもって、時には生きる知恵を持って、時には歌い踊り、軽やかにゆるやかに生きていく。そして彼らが見ていた伝承と風習が残る復帰前の沖縄の風景こそが「パラダイスビュー」である事に気づく。