2024/05/02 等価交換?

等価交換といえば錬金術。錬金術といえば鋼の錬金術師。
そんな世代に生まれ落ちた私です。
でも本当にそうなのかな?と思わされる今日このごろ。
皆さん如何お過ごしでしょうか。

何が等価交換じゃないとか、何が正当かとか、
あんまりそういう話ではないんだけど。
例えばタイムイズマネーってあるじゃないですか。
でも例えば感動するためにかけた時間と得た感覚って人それぞれじゃないですか。
得るお金も同じで、軽い仕事と重い仕事も本人によって感じ方違うし、
それで得たお金が同じだったらいわゆる、つらい仕事、簡単な仕事とかなるわけで。
『等価』となるなら、感じ方や肌感も等しく同じであるべき、
とかそんな事を思ってみたりする。
毛むくじゃらの人が脱毛する一方、あんまり毛が生えないから放置してるって人もいる。
そこにお金をかける一方、何もしなくても欲しいものが得られている人もいる。
戦争地帯に生まれた人もいれば、何も主張がなく何も起きない国に生まれた人もいる。
「人生は配られたカードで生きていくしかない」的な言葉もあるけど、
それこそ、じゃあ等価って何よ?って思う。
幸福指数とかで平均とっても日本でも東西南北で考えが違う。
となると、個人単位のミクロな視点で見て、
あなたや私の等価とはこれだね、って一つ一つ結論付けていくしか無い。
このお話には時分の中で結論がない。
なんとなく、生きている中で「これでいいんじゃない?」という
アバウトな等価交換で生きていると解釈している。
だって日本が円安になろうが円高になろうが、多言語と文化に慣れていない
自分自身はこの国家で生きていくしか無いのだから。
でも、もし日本国内で紛争が起きて自分も否応がナシに巻き込まれたら
多分国外逃亡しようと思うだろう。
そう考えると今を真面目に生きていないのかな、なんて思ったりする。
でも今起こっていない大事を考えて生きているほど暇という証左なのだろうか…
とも思ったりする。
何事もなくこんな駄文を書けている今現在があることに
多少なり感謝して生きていけばそれでいいのか?

こういう事を考えていれば割と時間が潰せる。
みんなそうなのだろうと思って生きていたのだけど
意外とそうじゃないらしい。
日に何度かは他人は何を考えて生きているんだろう?と思うこともある。
それくらいに平和な頭を持ってしまったがために結構苦労しているらしい。
自分のことながら、そのあたりは本当によくわからない。
そういうクセもあるもので、仕事で精神が参ってしまってから
クリニックの先生にお世話になっているのだが、
先生に『哲学禁止』と言われてしまった。
今まで俺が考えていたことは哲学だったのか!?
言われた途端にびっくりして我に返った。
言われて数秒間、「今まで何を考えてきたのか?」と頭を巡らせようとしたが、
すでに俺の精神は病に冒されていて自分のことながら、返答はなかった。
あーこれが病気かな~とか、いや、考えているようで何も考えてないぞ?
と思ったり、そもそも地に足のついた哲学というものには触れていない。
歴史にある哲学としてある知識は本当に微々たるものだし、
そもそも友人から借りた「漫画でわかるニーチェ」みたいなやつも
借っぱなしで15年以上経っている。
ということで先生から言われた哲学禁止は時分の中で「問答禁止」として受け入れることにした。

ところで、「哲学禁止」を受けてから哲学とはなんぞや?ということを調べてみた。
WIKIによると、
・人間の存在や宇宙、道徳、知識、真理などについて深く考察する学問です。
うーん、考察…とはなんだろう?
・物事を明らかにするためによく考え調べること。(google調べ。)
深くってどこまで?明らかにってどこまで?考えて調べるって幾彼方まで?
確かに自分は人は何故生きているのかは小学生の頃から考えているし、
宇宙についても興味はあるし。
道徳観念については自分なりの道徳観念で生きているつもりだが、
知識については果てがないし、真理なんて千差万別だから
それぞれのポリシーを聞いて知見を得ようとしているフシはある。
発表会があるわけでもなし、統計を何となく自分の中で抱いているだけで
果たしてそれは本当に哲学という高尚っぽいものなんだろうか?という
暗中模索に入ることになる。
なので俺はものについてあれこれ考えることをひとまず辞めてみることにした。

そしてまず、考えることを辞めることは難しい、ということに気がついた。
人というものは常に何かを考えているか、本当に虚無の時間しか無いということにも気がつく。
青空を見て、「雲がこんな形してるなぁ」とか、「今日の青さはこれくらいだ」と思うことも考えるといううちに入るらしい。
また、頭で考えていなくても心で考えていれば
それは脳みそが休まらない。
というような事を先生に言われた。
ちょっと難しかったので心で考えるということは
要は思ってもいないけれど気にかけてしまっているということだと勝手に解釈したが、
そんなものはまるで自分を捨てるのと一緒じゃないか?
生まれたての赤ん坊のような純粋な欲を持ってないと無理じゃないか?と焦ったが、
「でも心の方は禅僧にでもならないと無理ですね。」と先生に言われ、
立て続けに「あなたが僧になったら私が死んだら知り合い価格で戒名作ってよ。」とも言われた。
「たとえ僕が僧になって宗派がどこでもよかったらやらせてください。」と返した。
まぁ要は『哲学禁止』とは脳みそを休ませろということ。
でも哲学は禁止。
一体どこまでが哲学なのだろう?というのは折々頭をよぎる。
よぎっては、ここから先はきっと哲学だ!なんて思って考えを打ち消す。
いやでもマジでこれが大変だった。今でも時々大変になる。

俺はそもそもの話、仕事が忙しすぎて自分自身というものを忙殺していた。
言葉のまま、自分の時間が寝る以外なかったからだ。
なるべくとるようにしていたが、義務のようなあれやこれやで無いに等しい。
だからこれ以上自分を殺して死体蹴りのようになるんじゃないかと思っていたが、
仕事から離れると暇にかまけて自然と考えが出てくる出てくる。
あなたは寝る前に考えがマグマのように出てくることはないだろうか。
そういった形で今まで黙殺されていた自我のようなものがとめどなく出てくることもある。
まず、「なんで生きているんだろう」
知らねぇよ。生を受けた『義務』で生きてんだよ。とか、
「親や友人に悲しませることになるから」なんて、場合によって適当にあしらう。
「俺が死んだところで親はともかく友人は悲しむのか?」
知らねぇよ。誰が本音を言うわけでもない。
「そんな悲しい世界で生きている意味はあるのか?」
知らねぇよ。そういう倫理道徳がそうせざるを得ないって言ってんだよ。
そうして考えに蓋をしようとしても問答が終わらないので、
言葉や気持ちではなく、形で蓋のようなものを作ってゴミ箱に入れて蓋をしてみた。
だがゴミ箱に入れておくとそれらの問題は意外と勝手に出てきてしまう。
以外だがこれが僕の場合本当で厄介だった。
なのでそれらを書きなぐった体にして紙飛行機を作ってどこかへ飛ばしたり
昔のアニメのようにピカーンと光るまで彼方へ蹴飛ばしたり。
そうすると意外とうまくいくことに、やっと最近気がついた。
この方法も本当に聞いているのか甚だわからない。
だって今既にこうして書いていることが何よりの証拠ではないのだろうか!
あーーーーまぁた戻ってきちゃったのかな!?わからん!
とりあえずこれを書いている今は語りかけてこないので大丈夫なのだろう。

ということでこの椅子と机に向かっているのも疲れてきたので
このあたりで終わろうと思う。
勝手にしろよとあなたは思うだろうけど!
あ、ちなみに昨日はちゃんと『オッペンハイマー』とゴジラを見てきた。
意外と自分は真面目な映画のほうが好きなのかもしれないなーとか、
いやでもくだらない映画も好きだけど今回のゴジラはなー…
そんな事を考えるとまた寝られなくなるので、ここまで。


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