久しぶりに。 怒濤だ…とここ数週間思い続けていて、ある日まできてやっと「そうでしかなかった」と思えたけど、最中は「これいつまでこんな感じなんだろうか」「ちゃんと終わるのか、これ」とそわそわしていた。 終わりの兆しはたぶん、あるものをなくしたことだったと思う。いつもだったら見つかるだろうと思う感じのさがし方をしても見当たらなかったし、見つかるまでさがすというのが今回はちがう気がした。本当に本当にさがせば見つかるような感じはするけど、たぶんそれはするべきじゃなさそう、と
ひと月ほど前に一度手に取った歌集を、買う、買う、と思って出かけた。 買うなら一度手に取ったのと同じ書店で、と思っていたので、その書店の入っているショッピングモールへと向かう。 その前に寄り道をして、公園を散歩した。すっかり葉の落ちている木々の、幹の色や模様に目が行く。白くなめらかなその木肌は、雪の混じる風のなか寒々しくもきれいに見えた。 しんと静まる植物たちのなかで、ぽつりぽつりと咲いている花は、よく目立つ。 花弁をみっつだけつけて、上に開かず地面に向かって開いて
いきなり寒い。 先月の終わり頃、美術館で絵をみた。 会期が終わる週の、火曜日に。 梅雨の頃から始まっていたはずだ。始まる前に街中の掲示板でポスターを見つけていた。 生活をして、続けていくだけで、ずいぶん大変で必死だ。 スーパーに行ったら、最近よく買っているチーズが思いのほか高くておどろいた。量と味、少しの違いなら、とそのスーパー自社ブランドから出ている似た商品を買った。60円安かった。 帰ってきて食べてみたら、けっこう違った。 買う頻度を落として、もとの
そういえばこの1ヶ月は展示らしい展示を見に出かけていない。 日記をぱらぱらめくって、この1ヶ月どうして過ごしていたのかを思い出す。 左腕にやけどをした日。今ではずいぶん薄れてきて、少なくとも表面はなめらかだ。 さいきんでは指のつけ根のささくれが気になって、今朝、ドラッグストアでハンドクリームを買った。もともと他に目当てがあり、ハンドクリームを買うつもりはなかった。ひとまず、夜眠るとき、ないよりはあったほうが気持ちが落ち着くので、小さいチューブで「しっとり」と書かれた
こんばんは〜 さいきん、まとまって本を読む時間をとるようにしてて、「これはいったいなんだ?なんでこんな読んでるんだ?」とおもっているので、それを整理するために、つらつら書いてみようとおもいます。 単純にめっちゃ時間がある、本もけっこうある、お金がかからない、家でできる、読む本にかたよりがあるなと思ってた、日常生活を支えるための本はどうしてもかたよる、やっぱりことばすきだなーとおもう、感覚的にいろんなものが入れ替わって次の動きにうつっていくだろうけどあんまりにも感覚的
8月9日の朝のメモ かたちだけなぞるようなことをしても何にもなりません。 ☀️ ↑これ書いてちょっと寝て起きたらすっきりしてて、すきな本屋さんに久しぶりにいきました。 本屋さん、めっ………ちゃたのしい…!! やっぱすきなんだなぁ。ものすごく単純に、わくわくする。 ひとりだけの部屋であれこれむずかしく考えてるのがほんとうにばかばかしく思えました。帰ってきたらまたそれしてたけど。でもばかばかしく思えた時間がちょっとでもあると、そのあとは「もうこのへんにしとこ〜」
ちょっとしたら消すかもしれないです。消すかもしれないけど今は書きたいきもちなので書いてみます。書くことがひとつケアになる。(だからこそ書くことをどまんなかに置ききれない生き方をしてるんだろうなぁ。こういうことに気がつくから書きたいし…。ぐるぐる。) 自分のケアを兼ねているから、しぜんと、なるべく、きついことを避けた書き方をしていて、それを読んであとのじぶんも気持ちが落ちつく、みたいなところがあります。 なるべく落ちついているのが落ちつく(へんな言い方だけどそのままにしと
書いときたいことぴゃぴゃぴゃっと書いときます。 ちょっと前から「調子がくるってるなー、これまでどおりではだめみたいだ」となっています。あついしなー、とか、去年のいまごろのことおもえばそりゃそだなー、とか、いろいろおもいうかぶし、わかってないこともたぶんある。あとはもう直感にしたがうしかないのかもしれない。それってめっちゃどきどきするんですよね…。まあ、いうてもしぬほどのことではないから、なんにしても、なるようになればいいんかな。 でもだいじなところはおさえてるからい
プッチンしてやろう、とお皿を当てて容器ごとひっくり返したら、プッチンするまでもなくプリンがするする降りてきた。無事にぷるぷる器の上でしていて、拍子抜けする。プッチンするつもりだったのに、まあいいか、ぷるぷるだし。なめらかに食べた。 食べ終えてほんの少しの時間ぼんやりしながらスマホを眺めて、今日見に行った展示の作家さんの投稿をSNSで見てから、流しにお皿とプリンの容器を置いた。また、「プッチンしなかったな」と思った。プッチンしなかったから、容器の後ろのツマミはそのままぴんと
また詩の事 「また」って言ったって、誰も前に書いた事覚えてないだろう。それでもまた。 何度も何度も何度も何度も読んでいるうちに、詩から立ち上がる光景が、豊かになっていく。色も音も「ぼく」の心も記憶も温度も、言葉を新たに覚えた時のように、捉えられるなにかが増えていく。目が驚く。ついこの間まで、見えなかったのに。ぐんぐん拡張していく世界。言葉たちが持っている、元から備えている広がり。その限りないこと。【A】や【B】が、文字となった詩となったことでかつんかつんと響きあって、
6月11日 はたらいている時にどこからか 「Fireflies!」 と聞こえてきて、はは、ホタルか、海外から来てるお客さん、前の晩にどこかでホタル見たのかな。と思った。 中学の英語の時間に、きっと今とおなじくらいの季節だろう、【Fireflies】という曲を先生が聴かせてくれた。 英語の時間に音楽、音楽の時間に映画。そういう、いつもとちがうことをする時間がたのしくて好きだった。生徒たちが退屈しないようにとか、学んでいることが勉強する対象としてだけでなくて生きていく
読んでいる本の話をするのがへただなぁ、あんなに繰り返し読んでいるのになぁ、と何度も思っています。 一度書いてみることにします。そうしたら少しは話せるようになるかもしれない。 * 「違うこと」をしないこと 吉本ばなな どういう流れで手に取ったのかあいまいですが、手に取った当時は相当「違うこと」をしていました。 広い目で見れば全体は「違うこと」ではなかったのですが、もうその当時には「違うこと」になってしまっていました。それなのにそのやめ方が全くわからなかった。今もま
「エッセイは自慢ばなしだよ」とある時きいて、へぇ、そうかも、と思いながら、そう?とも思った。その、そう?のほうの、気持ちが残ったまま、そのときの心の中で首を傾げた私が残ったまま、今日まできている。季節は少なくともひと巡りしてる。 エッセイ、と呼ばれるものなのだろう、誰かの日常を切り取った文章や言葉たちを読むのは楽しい。切り取り方も、切り取る部分も、そもそも見てる主体もそれぞれに違う。 生き方を知りたいから、エッセイを読んでいるような気がする。みんなどんなふうに物事に向か
青い景色がみたくて、ちょうど海の近くで気になる展示がやっていて。 行くなら今日で、空もさわやかに澄んでいて、電車で聴くのによさそうな曲を見つけて、水色の表紙の本もかばんに入れて、出掛けた。 玄関を出たら、壁にかたつむりがいた。地面には緑色に光るカナブンだかコガネムシだかがひっくり返っていた。すずめは飛び跳ねながら食べ物を探しているようだった。 最寄りの駅で電車を待つあいだ、本を取り出すと、裏表紙の紹介文に目がとまった。 本はいろんな要素をふくんでいる。ひらいてみ
このところ少し潔癖が過ぎる、と感じていた。今も多少そうだ。 そんな言い方をして、言葉に酔っていやしないか、と冷めた頭が画面越しに見つめ返してくる。 抜け出したつもりがまた、これでは、どんなに望んだ場所でも、どんなに望んだ相手でも、どんなに望んだ機会でも、あるいはそうであるからこそ、自分を平気で置き去りにしそうだった。 やっとのびのびと書けるようになってきたのに、やっとすきなように服を着られるようになってきたのに、やっとものが言えるようになってきたのに。 この力
つむじの位置を教えてもらってから、ぽかんと暇な時に、「わたしのつむじは、だいたいここらへん」と、頭部に巡っているんだろう神経に意識を集めるようになった。へんなひまの潰し方だなぁ、と書いて思う。けど、気になるのだ。初めて教えてもらったから。 髪を乾かす時に、つむじから乾かすよう、それで私につむじの位置がわかるよう、美容師さんが「ここがつむじ」と、軽くとんとんと叩いた。そのとんとんを思い出すために、忘れないために、集中している。 前を歩く二人組の、それぞれのつむじが見える。