小遊三の回答

 近親相姦の禁止(と、その混乱)が、落語に刻まれていた。
 先先代の圓楽が司会の時代の「笑点」。お題は、「天才バカボンの作者、赤塚不二夫さんが紫綬褒章を受賞しました。おめでとうございます。落語の方にもバカボン親子に負けない変わった親子が登場します。皆さん、そういう親子の息子になって下さい。世の中の疑問を仰って下さい。あたくしが父親になって(与太郎ですねこれも)、『それがいいんだァ』なんて呑気な合いの手を入れます。
 なんか答えて下さい」。
 一番の小遊三の答え。
「父ちゃんさぁ、俺と妹とどうして結婚できねえんだ」
「それでいいんだァ」
「だって父ちゃんなんか親同士で夫婦じゃねえか」
 で、メンバー多数から、「そりゃ落語にあるよ」とツッコミを受ける。

 私はかねがね、もし近代以降の「笑点」の出演者トップを決めるとしたら、いろんな考えはあるにしても、小遊三だと思っていた。
 彼は、犯罪と下ネタを背負っている。いちばん下卑たものだ。だが、なぜそれを「ネタ」にしなければいけないか。そもそもそれは、落語という大衆芸能が背負っていた、除け者としての罪業でもある。それを罪である、あるいは笑い物になるべきものであるとして、遠心分離のように分け隔てるもの、これは法の番人として機能する。
 して、この回答は、法の中でもその最も根幹であるとする、近親相姦の禁止について、あろうことか、「そこに矛盾がある」と、コミカルに名指しているのである。
 なんでそんな迂遠なことをするのか。法は、根源においては矛盾する、矛盾そのものが存在意義だといってもいい空洞なのだが、それでも飲み込まざるを得ないものなのだ、ということを、通告しているもののようだ。
 ルジャンドルは、近親相姦の禁止についてだけは、本当に地球すべての規模で、その独特の言語、法文、技芸、それを駆使して書き込まれていると言っていた。その一端は、落語にもしっかりあったということだ。
 その、落語のいちばん罪深い部分を背負っている小遊三こそが、メンバーの中でいちばんの回答者たりえていると、僕はそう思った。
 当たり前といえば当たり前の話。

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