文学フリマ東京で購入した「シネマフィリア 01」感想(Pさん)
とある筋からおすすめされ、文学フリマ東京の会場で買わせて頂いた。映画は、僕はいわゆる一般の人の中で映画好きと言われる人より、見て来なかった。いくつか印象に残った中で言うと、「アマデウス」「ソイレント・グリーン」「マルホランド・ドライブ」などが、印象に残った映画としてある。しかしこれは、見栄を張って言っている所があって、最近の庵野秀明の「シン」の連作を本当に無邪気に楽しんで見たりもしていた。ウルトラマンがんばれ、仮面ライダーがんばれ、という具合に。
そんな自分でも、この「シネマフィリア」、特に最後の三つの文章を読んで、もう少し映画の世界自体に踏み込んで、いろいろと見てみよう、と思わされた。
「ディパーテッドの無奉仕主義」牛骨枯
流れ弾を食らいたくないのでぼかすけれども、とある筋の方々を撫で切りにしながら、ハリウッド映画のハリウッドたるあまり深く考え込まないアクションと激しい描写を楽しむ映画への賛美を感じました。三ページ。ものすごい勢いで、撫で斬る。胸がすく。そうか、この文章自体も、エンタメ名作映画のように楽しめるようにしたのかもしれない、作者は。
「物思いにふける蓮實重彦? ――映画と写真/運動と静止についての覚書」佐藤智史
映画評論家として名高いどころではない蓮實重彦だが、その蓮實重彦の、映画を肯定するうえでは全く迷いのないひとつのスタンスが、崩れようとする点がある、そこが「写真」である、といったような筋の論。
読み始めて、文脈を越えてこの一文が妙に印象に残ってしまった。確かに、フィリップ・ソレルスなんかを読んでいる時に、激しくそんな感じに陥ったことがある。あっ、と気が付いたら、頭が文章の理解を諦めていた。この文章は、もしかすると、理解するということを想定せずに書かれているのだろうか。しかし、何かしらそこには、意図と言わないまでも、それを書かせるための「エンジン」みたいなものが機能はしていたはずだ……いろいろな読み方を試みる傍らで、目と手が呆然と動くだけ、そんな文章に出くわすことはある。
だが、ここの所は、単純に読み手の共感を得たいがために書かれたわけではなく、「写真」の、「瞬間」のあり方ともちゃんとつながっているのだ、というのは読み進めてわかった所だった。
「無言の灰 とすれば炎も仮りの宿り」actus
この文章に出会えてよかった! まさか映画評をするのに、評というか、映画という現象自体の説明をするのに、ルジャンドルの理論を引いてくる人がいたとは。佐々木中経由で、ルジャンドルという哲学者、中世法制史家といえばいいのか? 肩書がたくさんあるから何とも言い難いけれどもこの人を知り、邦訳を半分くらいは読んだ。ただ、この線がじつに細い。何人か、継承している人はいるようだが……という所でそこまで執拗に追いかけることをやめてしまった。読まなくなって何年かたった。そのルジャンドル熱をまず再燃させられた。
ルジャンドルは、映画について直接語っているというよりは、人間と鏡/イメージの関係、宗教的な「打ち立て」の効果、などについて詳細に理論化した人という認識なのだが、そのイズムを継承して映画の理論として機能させた人が、イシャグプールという人であるらしい。この人のことをぜんぜん知らなかった。というわけで、「ル・シネマ」という本を読み終わった直後に注文し、今読み進めている。そこで、それこそ先ほど出てきた「ハリウッド映画」というものの、映画史における機能(これは映画という一ジャンルだけにかかわる話なのではなく、大げさに言うとアメリカ人の心性を作り上げ、神話としての機能すら持っている)や、アメリカ映画とヨーロッパ諸国の映画の対立、くだんの「イメージ/鏡」としての映画、などについてどんどん氷解していく心地がしたのですが、それはまた別の話。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?