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未来の食

こんでんす。鐘奈師kinakoです。今回は僕が学校の現代文の課題で出て、Twitterで皆様にアンケーをとってかいた小論文をそのままコピペします(名前は本名からユーザー名に変えました。) 食事とは?その必要性などを書いています。ぜひ読んでみてください。




 未来の食
                                                   鐘奈師 kinako

 今、世界には様々な問題であふれかえっている。コロナウイルスを始め、香港・ミャンマーでの過激化するデモ活動、シリア・アフガニスタンでの紛争などだ。そしてこれらの時事はニュースや記事などにしやすい出来事でもある。人々はこういう大きなこととに意識を持ってかれがちだ。しかし、これらの陰に隠れ悪化し続けることがある。それは食料危機だ。食料危機も前々から発展途上の国々で心配されていたのではと大半のかたが思われるだろう。だが、今回私が取り上げるのは「食べるものがなく発展途上国などが苦しむ」という一般的な食料危機から解釈をかえたもので、屋台文化が根付いているタイなどでは考えにくいが先進国こそ悪化しやすく、この食料危機が進んでも飢える人が増えるというわけでもない。それが今回私が取り上げる食料危機だ。
 
 今はまだ多数の家庭で週に一回以上は家族でテーブルを囲み、出来立ての手料理をつつきながらその日の出来事などを面白可笑しく話しながら笑って過ごすという時間がある。だが、このまま私の提唱する食料危機が進むとこの家族での過ごし方が変わる、又はなくなってしまう。なぜなら今のまま世代が変わってしまうとちゃんとした料理をできる人が徐々に減っていきいずれは「人が食べるもの=工場製食料」になってしまうと考えたからだ。料理ができる人が減る、いなくなる理由はいくつかある。
 料理を生まれて初めて誰からも聞かずに始められる。とは考えにくく「誰かから教わる」から始まるのが自然だ。そしてその誰に当てはまる人物は身近な存在が一般的だろう。祖父母や両親だ。だが、最近では家族の形も変わりつつあり祖父母とは別々に暮らす俗に言う「核家族」が増えてきている。つまり料理を教わる選択肢のうち祖父母という択が減っていく。
 次に「両親から料理を教わる」だが、私はこれに一番の危惧を感じている。共働き時代になり休日や子供が半日授業で親が家に不在のまま食事をとること余儀なくされる。その結果親が食事代金を渡すという事が起きる。そうなると大概の子供は「食材を買ってきて料理をする」ではなくコンビニなどでインスタントや弁当を買って終わりや外食という択をとる。そしてこの択が習慣になり料理に触れないまま大人になる。一方親が共働きでなくても、共働きだが料理を作ることができないわけでもない家庭でも問題がある。最近では冷凍食品やチルド物、インスタント食品などが簡単にそしておいしくなってきている。現にここ数年で大きくシェアを拡大し、お弁当に夜食、そして家族団欒の食事などさまざまな所で多様されている。またこのコロナの自粛期間に存在感が増してきたUber Eatsや出前館、マックデリバリーなどの出前をスマホ一つで簡単にでき、飲食店側も簡単に送ることができるシステムが一般化されるようになってからは「出前を取る」という行為がより身近なものになり、より一層「家でちゃんとした料理をする」という行為の頻度が減る又は限りなく0になりつつある。前にも述べた通り人間が初めて料理をする機会は親が料理するときのお手伝いなどだ。だが近年ではその料理に触れる機会であるはずの親が包丁や火などを駆使して行うちゃんとした料理を行わず、冷凍食品などで代用しているというのが増えてきている。となるとその両親に挟まれて育つ子供はどうなるだろう。その子にとって料理や食事の準備=「冷食を買ってきてチンして皿にのせる」や「蓋を開けお湯を注ぐ」「食べたいものをスマホで注文する」「たまに台所で火やフライパンなどを使う」と刷り込まれる。これ以外にも親の甘やかしと、子供のめんどくさがりだ。私自身よく叔父などから聞く叔父世代が子供時代の家族内での役割分担と今のとでは大きな差を感じた。それこそ料理は基本勉強が忙しくなる時期まで手伝っていた。他にも洗濯物を干すのは兄、取り込みたたむのは姉、風呂掃除は弟、といったものだ。だが今はどうだろうか。これは私の周りだけかもしれないが、家の手伝いをしているという人はあまり見かけない。子供が小さな頃から甘やかし育てる親が多いからだ。そして幼い頃からそんな生活をしていたらどうなるだろうか。わざわざお手伝いをするのがめんどくさくなる。するとそのお手伝いに含まれる料理もしなくなる。そうなると料理するしない以前に料理ができないまま大人になる。
 この三つの原因より料理をできない・しない子供が今後ますます増えてくる。彼らが大人になったとき料理はするか?しない。となるとそういう料理ができない・しない人たちの間に生まれた子供たちはどのようなものを食べるかというと冷凍食品やレトルトなど工場で作られたものに限られる。飲食店も開けて温めて積んで終わりといったファースト店など以外はなくなるだろう。それは料理に触れ合う機会が減ることで料理で将来食べていこうという夢を持つ子供も連鎖的に減るからだ.。
では、どうすれば料理をする・できる人が増えるだろうか。方法は人によって変わってくる。親ならば常識の範囲内で厳しくなり、子供がお手伝いをする環境を作ったり少しでも多く料理をする。子供なら積極的に親の手伝いをしに行ったり、親がいなければネットなどにある簡単なものから挑戦してみる。そういった地道なことの積み重ねが料理をする・できる人を増やすことにつながるだろう。
 しかし、「食事なんて栄養さえ取れれば別になんでもいい。」という意見も少なからずある。確かに動物がものを食べる理由は生命の維持に必要なエネルギーの摂取をするためだ。だが人間の場合は違う。もしもただエネルギーを補給することだけが目当だとそれは「エネルギーを補給するという作業になる。人間とは面白いもので作業がとことん好きではない。エネルギーを補給することが作業になると栄養が偏りだしたり、接種する回数が減っていき気づいたら栄養失調で倒れるということが起きるだろう。また、楽しいことが多いほうがいい。生活している上でストレスを感じることが多い人はそれの解消の一つの選択肢の一つになるわけだし、家族で食事をするときだって「あ!これおいしい」と子供が言い、それに対して親が「初めて作ってみたけどおいしいならまた作ってあげようか?」などといった会話や一日・その週に関する事柄を親子で談笑するちょうどいい言い訳にもなる。それが動物の「ものを食べる」ではなく人の「食事」をする利点と必要性だ。

 料理や食事は無自覚のうちに楽しんでいたり幸せを感じていたりなど、一人一人のなかでいつのまにかそんな自覚はないのに大切なものになっていた物でもある。ただ、消え始めたばかりだったり、料理をする人がいるから2021年度以前の料理という概念がなくなる・変わることに対して危機感を感じている人は少なく、そこまで危機感を感じていない人のほうが多いだろう。そしていつの間にかこれが現実になっていることに気づいて後悔することになる。すべてが部品のように均等に切られた野菜、ちょっとした焦げ目も無い焼き具合、一定化しオリジナリティの無くなった味付け。そんなものが一般化したらわざわざ人が集まって食事をする必要があるのだろうか。やがてそう思う人々が増えてきて、個々では食事をすることができず集団を作ってきた人間は、バラバラになっていく可能性だってある。しかし、防ぐ手段が「積極的に料理をするようしよう」といった「めんどくさい」と言われやすかったり、続きにくいということもまた確かだ。そして一人一人が○○しようを続けなければならない。そう考えたからこそ私は料理ができる人がいなくなることを食料「危機」と表記した。

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