
0.01mmか、銀河の向こうか——男と女の距離について
異性との距離感において、日本では親密になるか他人になるかの二択になりがちだ。心理的な繋がりが十分でないまま親しくなろうと、性愛を介在させてしまう傾向がある一方で、「恋愛に発展しない相手とは一緒にいる意味がない」と異性との関わりそのものを避ける人も多い。
このような不自然な距離感の背景には、異性を違う生き物だと信じる社会的価値観、アニメのポルノ的描写がスタンダードであること、友達か/恋愛かという極端な関係性、そして女を快楽に導く俺様と待ち続けるプリンセス像がある。
異性を違う生き物だと信じている
日本では、男女が仲良くなる際に、性愛を抜きにした親密さを築くことが難しい。異性との心理的距離を縮める方法として、セックスを手段とする考えが根強くあるからだ。しかし、セックスそのものが親密さを生むわけではない。性愛を介して心理的に近づいたように感じることはあっても、それはあくまで一時的なものであり、精神的なつながりとは別の次元のものだ。
さらに、日本の恋愛観には「男が女を快楽に導くべきもの」という固定観念がある。男性は「リードすること」が求められ、女性は「それを受け入れるもの」として描かれることが多い。これは、「恋愛は対等な関係の中で自然に育つもの」という本来の姿を歪めてしまう。そもそも、恋愛も友情も「人と仲良くなる」という点では共通しているのに、日本では「性愛があるかどうか」で区別される。この結果、異性との関係が「極端に近づく」か「極端に遠ざかる」かのどちらかになりがちなのだ。
これに関しては下記の記事で詳しく書いている。
アニメ=ポルノ?
日本のアニメやゲームでは、男女の描かれ方に大きな偏りがある。男性キャラクターは人間的な成長を遂げる存在として描かれることもあれば、セクシュアルな魅力を持つこともある。しかし、女性キャラクターはほぼ一貫して「官能的な存在」として表現されることが多い。
例えば、女性キャラクターは常に頬を赤らめていたり、不自然なほど内股で歩いていたりする。これは現実の女性の行動というより、「男性が求める女性像」として作られたファンタジーの産物だ。そのため、現実の女性に対しても「恥じらっているのが可愛い」「男性に対して従順であるべき」といった固定観念が無意識のうちに刷り込まれる。
さらに、アニメでは女性がセクシーに描かれることが標準化されすぎて、普段からアニメを見ている人ほど、それが性的な描写であるという認識が薄い。
キャラクターの胸や太ももが強調されていても、それが「普通の表現」として受け取られ、女性の身体が娯楽の一部として消費されることへの違和感を抱きにくくなる。女性は常にセクシュアルに描かれるべきだ、という考えだ。結果として、現実世界でも女性の身体が性的に見られることが当たり前になり、女性が「人として扱われる」のではなく、「性的な存在として見られる」傾向が強まってしまう。
(余談だが、筆者がアメリカの大学にいたとき現地の友達に、「日本といえば、日本食とアニメ、つまりポルノのイメージだ」と言われてゾッとしたことがある。アニメが世界で人気だと言ってもそれは非常に限られたコミュニティ内での話であり、アニメに対してそういう冷たい目線を持つ人がいることも少なくない)
このような描写に慣れた男性は、現実の女性と対峙したときに「思った通りの反応をしない」と感じ、どう接していいか分からなくなる。その結果、過剰に距離を詰めようとするか、まったく関わらないかのどちらかに偏ってしまう。
恋愛前提の異性関係
日本では、異性と親しくなるプロセスが極端である。恋愛関係において、「友人として仲良くなる」「親しくなる過程を楽しむ」といったステップがほとんど存在しない。
例えば欧米では、デート文化が一般的だ。恋愛関係に発展するかどうかは別として、異性と気軽に出かけたり、一緒に時間を過ごしたりすることが当たり前にある。しかし、日本では「付き合う=正式な交際」という認識が強いため、異性とフラットな関係を築く機会が極端に少ない。そのため、異性と会話をすること自体が「恋愛の始まり」と捉えられがちで、「ただの友人」としての距離感が確立されにくいのだ。
このような環境では、「異性と仲良くなる」という行為が、すぐに「恋愛か、そうでないか」の二択に分かれてしまう。その結果、異性とフラットに関係を築くスキルが育たず、「性愛を伴わない親密さ」という概念が乏しくなってしまう。恋愛も友情も、結局は「人と仲良くなる」という点では同じはずだが、日本では「性愛があるかどうか」でそれが区別される。性愛を抜きにしても親密になれる関係が本来は可能なはずなのに、それが一般的ではないため、距離の取り方を誤る人が多くなる。
これに関しては下記の記事で詳しく書いている。
女を快楽に導く俺様と、待ち続けるプリンセス
日本では、「男性は理系が得意で、女性は文系が得意」「男性は科学やロボットが好きで、女性はカフェや甘いものが好き」といった性別による興味・関心の違いが、まるで生得的なもののように語られることが多い。しかし、これらの多くは後天的な社会的刷り込みによるものだ。
例えば、「女性は甘いものが好きだからカフェに行く」とよく言われるが、実際には「甘いものが好きだから」ではなく、「カフェが人と寄り添うコミュニケーションの場として適しているから」という理由で訪れることが多い。女性は「共感」や「寄り添い」を重視するコミュニケーションを求める傾向があり、カフェはそれに適した環境だから選ばれているのだ。
一方で、男性は「強さ」を求められるコミュニケーションの中で育ち、弱音を吐いたり、感情をさらけ出したりすることを避けるように教育される。すると、感情を共有すること自体が苦手になり、「カフェでゆっくり会話をする」という文化に馴染めなくなる。こうした違いは、単なる「好みの違い」ではなく、社会的な価値観によって作られているのである。
理系・文系の偏見も同様だ。たとえば、数学や物理は「男性的な学問」、文学や心理学は「女性的な学問」とされがちだが、これは単なる刷り込みにすぎない。幼い頃から、男の子には「科学的思考が求められるおもちゃ」(レゴ、プラモデル、ロボット)が与えられ、女の子には「言語的コミュニケーションが求められるおもちゃ」(おままごと、ぬいぐるみ)が与えられる。このような環境の中で、興味の方向性が固定化されていく。
こうした刷り込みが、「男は◯◯、女は◯◯」という固定観念を強化し、異性同士の自然な関係構築を阻害している。
「友達じゃなくて恋愛の好き」・・・だから何なんだ?
日本では、異性との関係が極端になりがちなのは、以下の要因が絡んでいる。
1. 異性を「性愛の対象」としてしか見られない文化
2. 恋愛における「男がリードすべき」という固定観念
3. アニメが生み出す「女性=官能的な存在」という幻想
4. カジュアルな異性関係の欠如
5. 「男らしさ」「女らしさ」の刷り込み
本来、恋愛も友情も「人と親しくなる」という点では変わらないはずだ。しかし、日本では性愛の有無で関係を区別し、異性との接し方に極端な二択を設けてしまっている。この距離感を取り戻すには、「異性だからこう接するべき」という思い込みを捨て、もっとシンプルに「人と仲良くなる」という視点に立ち返ることが必要だ。