メタバース差別の発生と選民意識①選民ってなんだ?
前書き
メタバースという言葉が深く世の中に普及してから長い年月が経つ。
しかし、メタバース=特定仮想空間サービスという概念はいまだ根強く、その言葉が発端で誤解を招く可能性があるのでここで定義しておきたい。
メタバースとは「仮想空間」を指し、特定サービスを指すものではない。
仮想空間というものは広くMMOまで広がる。
今後ここで「特定仮想空間サービス」を指す場合はサービス名を記載する事にしよう。
セカンドライフにおける選民意識
セカンドライフが日本人に注目されたのは2007年頃の話だ。
この頃は電通などの大手企業やメディアがこぞって報道し目新しい金儲けとしてたくさんの人が参入した。
この事を仮想空間を扱うゲーム業界の人たちは決して快く思っていないと思う。それはかつてセカンドライフで生きた私も「良い事象ではなかった」と思っている。
これらは経済的な話にもなりうるので割愛する。
本題にはいろう。
本当にあった選民意識
セカンドライフの中で本当にあった選民意識。これは私が実感したものである。話の主軸は2007~2010年あたりに絞ろうと思う。
これはちょうど日本人がブログからSNSに情報媒体が切り替わるまでの時期の話だ。
このあたりからセカンドライフの住人の情報源や意識が変わりだしたからである。
セカンドライフの中で活動をしていた人は沢山いた。
ダンサー、ブロガー、ホスト、ホステス、ストリッパー、カフェ、ダンスクラブ、DJ。
職業をあげだすと多岐に渡り、あげだしたら切りがなかった。
その中でも特に注目を浴びるジャンルがあった。キャバクラとダンスショークラブである。
今回は選民意識が強かったダンスクラブに主軸を置いて話をしよう。
2007年頃とはどういう時代だったか
2007年頃の技術と言われてもすぐに何がどういう時代なのかわからないであろう。マニアックにたとえても判らないと思う。
世の中ではニコニコ動画が生まれたくらいと言えばいいだろうか?
MMDが生まれたのが2008年だったので、それよりもほんの少しだけ前の話である。
この頃のセカンドライフのアニメーションのほとんどは手作業で作られていた。モーションキャプチャーの技術がスタジオ単位に必要な時代だった。
キネクトが生まれたのは2010年である。
どれほど技術的な面で限られた世界だったかがわかると思う。
それ故に滑らかで動きの大きなアニメーションが少なく、個人で「質の高いダンスアニメを探すスキル」が必要だった。
ダンスクラブでは何をしていたか
限りある技術環境の中でダンスショークラブでは何をしていたか。
一口に言うとストリップショーである。(後に脱がないショークラブも現れるが2007年時点ではストリップショーが多かった)
なぜストリップが多かったのか?
簡単に言うと当時のセカンドライフはレーディングの区分がおおざっぱだったのもある。
現在では大きく三つに区分分けされているが、当時は「表現の規制」がとても緩かったのだ。
それ故にキャバクラやホストクラブ、ストリップショーなどが人気コンテンツだった。
ただ、このストリップショーが人気だったのは演出が素晴らしかった。
あるダンサーは脱ぐと薔薇の花びらが舞い上がるような演出をし、
あるダンサーは光に包まれるように演出をしながら服を脱ぎ、ダンスアニメーションでキャラクターが後ろを向くたびに服を脱いでいた。
文字であらわすと大したことはないが、その演出の為だけに秒単位でマクロを組み手作業で演出をしていた。
現実世界で同じような演出は出来ないであろう。当時の限りある技術であっても個人の中で最大限努力していたのはセカンドライフの中でバブル期だったからである。
ダンサーの努力で稼げていた
ストリップショーという現実世界では足を運びにくいコンテンツ。
こぞって集った日本人。毎夜ストリップショークラブの中で飛び交う仮想通貨は現代の日本円にして最低でも2~3万は飛び交っていた。
やがてそのストリップショーは自分の店舗用にSIM(独立した島)を買った。
あまりにも人気店で人が来場できなくなるなどが多発したからだ。(当時の技術的に最大で入れる人数は60人が限度だった)
やがてそのストリップショークラブはのれん分けとしてグループ化を始めた。
問題はここから始まったのだ。
選民意識
実はダンサーというものは非常に「資金力」と「時間」が物を言う仕事だった。
ダンスアニメというものは一つ150L$(おおよそ85円)~するものクオリティの高いアニメだと300L$(180円くらい)はする。しかしこれが100個単位で必要になると話は変わってくる。
さらには演出用のパーティクルという粒子も100L$からで多種多様。
衣装、髪、小道具。探して選んで・・・とするとお金はどれだけあっても足りない。
さらにはダンスで踊る為の曲選び。それからダンスを選び、カスタマイズし細かくマクロを組み、イメージする通りに演出をするのだ。
やがてそれらは視野を狭くして何を生み出したのかというと「〇〇は素晴らしいけど、▽▽はダメ」という批評だった。
その次に生まれたものは「R18を許容していた世界に対してのR18を拒否」だった。
つまりその選民意識を持った人たちは「R18を拒否した人への賛同者」だった。
私は素晴らしいダンスショーをしたい。
選ばれた人間しかできない事。
色んな人から評価されている。
特別な存在
だからアダルトな表現はしたくない。
結果的に、のれん分けからの独立となった。
そのダンスショークラブが最終的にどうなったか?
すべて消えた。
当時、名をはせたものは今は何一つ残っていない。
一夜で数十万単位の売り上げをたたき出したショークラブも、ホストクラブもキャバクラも、すべて消えた。
日本人がセカンドライフに飽きると共に人知れず一つ一つ時代の終わりを告げるように消えていった。
そして同時に「ダンサー」という仕事が仕事という役割がなくなってしまった。
これは時代と共にダンスアニメが豊富になったのと同時にバブル期が終わったのもある。
バブル期が終わりを告げるとダンスショークラブのみならずホストやキャバクラなどが衰退していった。
しかし新たに生まれたものもある。
ダンスショー団体として新たに別の団体が生まれたのだ。
これはユーザーの技術的な進歩と努力によって「ショービジネス」として始まった。が、しかしもちろん続かなかった。
シンプルに経済的な問題ですよね。
選民意識や思想とはなにか
小難しい言葉は私は非常に苦手だ。
ただ、どの仮想空間でも「この人は〇〇という活動をしている人だよ」という紹介がある。
その活動内容を聞いた人が「あぁそうなんだ」で済むかどうかの問題である。
「わ、すごい!」か「なんだと??」となるかである。
ようは「話を聞いた人の心持の問題で活動している人にはそんな意識がないのではないか?」である。
例えばダンスショークラブでも実際にあったのが
「お店が有名だからブログに書く際、書き方に気を付けてね。中傷などしないでね」というのが選民意識に当たるのだろうか?
しかしこれの言葉を変えると受け手の印象は大きく変わるだろう。
「店のブランドネーム守る為にブログの書き方に制限かけてんだって厳しいよねwどんだけ特別ぶってんだよw」
私が言いたいのはこういう悪意と活動者の意識は隣り合わせなのではないかという所である。
もっと簡単に言うと「頑張っている人の後ろには金魚の糞とうんこが付いてくる」
誰しもが自分は特別でありたい。
しかし光を得た人の近くにいたら自分も特別なような気がする。それが選民思想なのかなとは思う。
でもこういうのってどこにでもあるよね。
今の若い人たちは「その思想が衰退を招く」というのを肌で判っている気がする。
ある意味では成熟した人が多いから、そういう人からそっと離れている気がする。
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