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NETFLIX ブラックミラー〜人生の奇跡の全て〜評論

今日のNETFLIXの「ブラックミラーシリーズ」より『人生の奇跡の全て』について
評論しようと思う。

・Netflixブラックミラーシリーズとは?

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ブラックミラーシリーズは近未来の人の生活を描く作品集である。SFと言えるかというとそうではない。サイエンスではあるが、フィクションとは思えないほどリアルな未来が描かれている。作品は毎回完結型で短いと30分ほどの短編映画くらいのボリュームで、長いものは90分以上ある。
結末はバッドエンドが多い。それも、未来の便利すぎるテクノロジーに依存した人間がバッドになることが多い。
芝居がうますぎるキャスト陣と創造力溢れるスタッフが、未来人類が陥るであろう問題点を素晴らしいクオリティーで描いている。今回は特に興味深かった、そんなブラックミラーシリーズの中で『人生の奇跡のすべて』について評論する。

内容の概略

時代は2100年くらいで、多くの人が体内にチップを埋め込み過去自分が見た映像をすべて保存できるようになっている。よくある「言った、言ってない論争」は、じゃぁチェックしよう!と言って過去の記憶を壁に映したり、タブレットで見たりしてすぐ確認できる。何かの目撃情報も、そのチップに保存されているので記憶が薄らいでも、映像でまた再生できる。元カノとのセックスの様子も、見たものならすべてデータとして再生できる。記憶が映像化されてシェアできる。そんな時代背景。
 主人公には彼女がいて、あるパーティーで彼女とペテン師バイブスの薄っぺらな色男Cと同席する。Cは彼女と仲がよく、やたらいちゃつくので主人公は浮気じゃないかと疑う。パーティー後、主人公は家で、そのパーティーで彼女とCがいちゃついているシーンの記憶を何度も見る。主人公は見れば見るほどCと彼女の浮気の疑念が深まっていく。よくカップルである、あの人と仲良くしすぎじゃない?なんかあるんじゃないの?の疑念はもう映像が見れないから忘れていくが(それでもこだわる人もいる)今回の時代はそれが映像で見れるものだから永遠にその彼女とCの絡みのシーンを見れてしまう。さて、彼女は主人公に「今愛しているのはあなただ、だから気にしないで」と何度も言うが、過去にこだわる男は執拗にチェックを続ける。見ている側は「主人公だっせー、、、ネチネチしやがってよー」と思う。
しかし、実は彼女はCと昔付き合っており、主人公と交際中にもCと性交渉をしていたことがその細かいチェックで判明する。男の予感は的中していたのだ。彼女は涙ながらに謝罪するが、二人は別れる。男は、彼女が出て行ったすっからかんの部屋で彼女との素晴らしい日々を永遠と再生してそれを見ている。記憶の中に生きて前に進めないでいる。ラストシーンで、男は自分の体内から記憶再生チップを取り出し作品は終わる。

今回もブラックミラーシリーズで多い『便利=善』という時代精神に疑問を投げかけている。さて今回哲学的に考察したい部分は以下三点だ。


1《記憶の映像化のメリットとデメリット》

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まとめるとこのように記憶の映像化のデメリットメリットは分かれる。

1ー2《記憶のシェアが可能にするもの》
まず記憶のシェアだが、基本的に記憶の映像化のメリットの中核はこの部分だろう。個人の記憶を他者と共有することによって、公では防犯対策になる、犯罪者の顔の記憶のシェア、犯罪現場の記憶のシェア、証拠の確証。個人間で言えば、個人間のトラブルの抑制、記憶違いもなくなる。楽しかった記憶は映像で共有できる。プライベート満載な個人の記憶は現在では基本的に語り継ぐことしかできなかった。だから、戦争の語り部やアイヌの語り部が存在するが、それが映像になればより語り継ぐ効果は向上する。すなわち未来永劫に良いプラットフォームを残そうとする倫理的な活動はリアリティーを帯びて現代人とつながることが出来るかもしれない。死体からチップを取り出せば死んだ兵士の最後の記憶も臨場感を伴って再生できるだろう。

1ー3《プライバシーの問題》
しかし、本作の中にあったようにプライベートな情報もシェアできてしまう。昔の彼女、彼氏とのセックス動画なども簡単にシェアできてしまう。さらにはチラッと映った誰かの顔を分析して個人情報まで割り出してストーキングできるかもしれない。記憶映像をだしに脅しも簡単にできるだろう。ただでさえプライベートの情報価値が高い芸能人は立場が弱くなり、インターネットを媒介して個人情報売買のオンパレードになるだろう。リアル(オフライン)での付き合いはカメラが回っているのと同じで、常に互いに水面下で監視しあっていることになる。これはフーコーのパノプティコンやデイビッドライアンの監視社会の発展系、すなわち、トップダウン型の監視から個人間での監視へ以降を意味している。
さらにバンドマンの自分の立場から言えば、観客がライブを観てそれをシェアすることも簡単にできるだろう。スマホ撮影が目でできるようになるのだから、ライブ中は動画撮らないでください!という規範ももはや意味がなくなるだろう。一回見たものを何度も再生できるなら、体験型イベントの意味もどんどん薄くなるだろう。風俗店も一回行けば、その時の映像を永遠に再生できる。そしてその記憶を売ることも誰から買うことも容易に可能になるだろう。風俗レポライターは体験を異映像化して売ることでとても儲かるかもしれない。最近アダルト業界で流行りのVRのAVのさらにリアルなバージョンだ。

1ー4《身体性としての知識の喪失》
映像記憶はノートとペンを持ち歩く必要もなく、いつでも記憶のフォルダを開いてすぐに確認できる。教科書も持ち歩く必要がなく、一度全て目を通しておけば後で再生できる。このような情報を容易に得られるようになる現象はすでにインターネットから始まっており、なんでもWikipediaで調べれば出てくる世界のさらに最先端バージョンだと捉えることができる。ただ映像記憶には自分が見たもの。という制約がある。すなわち、覚えてなくてもよく、その都度その都度情報を外部から持ってくるというやり方だ。実はこの近未来2100年ごろ起きそな記憶にまつわる議論が最も古くされたのは古代ギリシャである。

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 プラトンの著書『パイドロス』の中で、記憶について議論されている。

昔々エジプトのナウクラティス地方にテウトという名の神がいた。
この神は、数、幾何学、天文学、囲碁 や双六に似たゲームを考案したが、加えて文字も発明した。彼は神の王タムスを訪れ、それぞれの技術・学問の効用を説明し、人々にそれらを伝授する必要性を訴える。話が 文字に及んだとき、テウトはそれを誇って、これは記憶(μνήμη)と知恵(σοφία)の薬(φάρμακον) であり、エジプト人をより賢くし、その記憶力を向上させると語る。これに対してタムスは書かれた言葉の問題点を指摘する。
 筆記は、学ぶもののうちに忘却をもたらす。なぜなら、学ぶものは、筆記を信用し、記憶の訓練をおざなりにするからである(μνήμης ἀμελετησίᾳ)。彼らは、外的な文字によって生み出された書かれ たテクストを信頼し
、自分で内部から想起(αὐτοὺς ὑφ’ αὑτῶν ἀναμιμνῃσκομένους)しようとはしなく なる。テウトが発見したのは、心覚え(思い出させるこὑπόμνησις)の薬であって、記憶の薬で はない(275A)。

この議論をパラフレーズすると「自ら思い出す力が大切で、全部外部から持ってくることを可能にする文字はその力を低下させるからダメです。」ということだ。人間には新しいことを記憶するという身体性がある、しかしそれを奪ってしまうのが文字である。そしてもう1つ、外部の文章を身体を伴った経験よりも重要視するようなることへの危惧である。しかし重要なポイントは、人間ができた身体性の喪失は一体何を招くのか。という事がリアリティーを持って現代人に届かない点にある。「えっ、記憶する力が落ちたら何が問題なんですか?」という人が多いのが現状だろう。

1ー5《外部テキストに頼り記憶の低下を肯定する者への反論》
ここで、タムスは以下2点を分けている。
・内的記憶力→記憶力。自らの内側で思い出す力→知識
・外部的記憶力→何かによって思いださされるもの(文字など)→情報

分かりやくいえば、カンニングと長い間勉強して体得した知識の違いだ。
カンニングが成功するのは答えがある問題だけだ。社会の問題には答えはない。

私たちの今日の社会は情報化社会と言われ、情報が溢れかえっている。しかし、それと比例するように個人の知識の量は外部情報に頼るが故に低下している。そして理由は簡単ですべて外部に頼っているからだ。私たちはすでに火も起こす事ができず、自ら食糧を作ることもできない。身体的な経験は外部情報で得る事はできない。
 現代人は多くの情報に触れる分、「あーそんなことあったねぇ」と無意識に眠っている記憶(以下:中間記憶)の数は増えている。しかし中間記憶におくべて実際稼働している知識は少ない。中間記憶は、文字によってリマインドされるので基本的には寝ている情報で役に立たない。無意識の奥の方に行ってしまっている。タムスの言う記憶力は、文字に頼らずともスッと思い出せるものを指している。ここで大きなポイントは、タムスの記憶力はほぼイコール知識化する力であり、私はこのタムスの内的記憶力によって定着した情報を、”身体化された情報”と呼んでいる。さて、身体化された情報は個人の行動に影響を与えていくわけだが、その知識はすべて過去のものである。

私たちは未来の知識を引用することはできない。人間とはもともと無知で過去からの知識を得ることで社会に適応できるようになる。すなわち、過去の情報を訓練して身体化させている者は記憶力が鍛えられており、様々な情報が記憶に定着しやすく、記憶の筋力が着く。一方外部情報に頼っているものはその能力がないために外部の情報をその都度入れないと行けない、毎回筋力が0になってしまう。

1-6《自分の頭で考えられない人たち》
 これだけ社会の変動性が高い時代に、知識のない人は結局のところ他人の意見やTwitterの文面を信じ込み自分で考える事ができない。なぜなら、自分で考えるための知識という道具が頭の中にないからだ。以下タムスの引用

学ぶもの(付け焼き刃の外部情報に頼る者)は、筆記を信用し、記憶の訓練をおざなりにするからである(μνήμης ἀμελετησίᾳ)。彼らは、外的な文字によって生み出された書かれ たテクストを信頼し自分で内部から想起(αὐτοὺς ὑφ’ αὑτῶν ἀναμιμνῃσκομένους)しようとはしなく なる。

知識は、当然タムスのいう内的記憶力だ。新たな知識は、そのような筋肉(知識)の上には定着するが、そうでない人にとっては「右から左へー」状態。
なぜそれが現代で問題かと言うとそれは民主制だからだ。実はこのパイドロスが描かれた古代ギリシャも民主制だった。民主制の場合、市民全員が賢くないと誤ったリーダーを選んでしまうので全員が賢くある必要があるのだ。だから古代ギリシャの知識人は民主制に反対していた。

民主制の最もの問題は、ポピュリズムだ。簡単にいうとAKB総選挙的な人気投票にあってしまう事だ(イケメンだとか)。それを防止するには、市民が冷静で賢くなければならないのだ。しかしそのためには知識が必要になる、でないと議論についていけないからだ。そして知識がないと何が正しくて、何が間違っているかの分別がつかなくなる。今日の憲法の議論も知識のない人は参加できず結局、付け焼き刃的に調べたネットのまとめサイトの情報を鵜呑みにして投票する。そこで一票化されてしまう。一票には色はつかないので、何も知らない人が罰ゲームで入れた一票も、賢者の一票も同じ一票になる。


 このような場合、賢者は常に少数なので、結局は大衆に流されてしまう。すなわち、知識を外部に頼っているものが多い社会では民主制はポピュリズムや衆愚政治に陥りがちで、社会問題に直結する。実は『パイドロス』にも、文字の問題はアホにも賢者にも同じように話してしまう。という文面がある。
それが意味するのは、文字は賢者だけに語り、あほには見せないという事ができず、解釈を適当にされてしまう事が宿命づけられているというのだ。
しかし、これは双方向性で考えるべきであろう。賢者ならば、書かれている文面が、まさに、アホかそうでないかを見分けることもできるからだ。私はこのパイドロスの文言は当時の古代ギリシャ民主制の問題を暗に批判していると考えている。

1ー7《記憶映像の危険性の本質》
今回の記憶映像を外部テキストとして考えると、先ほどのパイドロスの議論の例と重なる。すなわち、結局、Twitterの文面であろうが、本であろうが、記憶映像であろうが外部からのテキストとして同じであるからだ。だから文字も記憶映像は所詮は外部から借りてきた知識になる。その中で記憶映像が特別に問題になる部分はそれが他者と共有された時だ。それは何かというと、コンテクスト(文脈)の喪失だ。

考えてみて欲しい。Twitterの文字で「芸能人〜が〜をしたらしいよ!」という情報を見た時、ある程度見識のあるひとは「文字だけじゃ本当のことは分からん」という思うだろう。それは文字に対する冷静な判断で理性が働いている。
しかし、それが映像だったらどうだろうか?同じように「映像だけじゃ本当のことは分からん」と言えるだろうか。


 もちろん映像も切り取られたものを発表するので情報量の違いはあれど文字と同じだ。しかし、私達は映像になったとたんそれを信じてしまう。しかしその時の文脈、すなわちその当人がどんな気持ちで、相手がどんな気持ちで、どんな文脈でそれを行っているその流れが一切分からないままだ。文字、画像、映像は文脈を維持できないのだ。

記憶の映像は客観的事実があまりにも強い印象を持って個人に認識されるがゆえに、客観に対する主観、個人のテキスト化できない文脈と内的世界を覆い隠してしまうのだ。すなわち、「それは当人しか分からない」という内的石界に外部の人間が言及し易くなる。すなわち、『それは当人しか分からないという常識』がさらになくなるだろう。

2《 記憶は人生そのものなのか》

 これに関しては全くもってNOである。しかし、人生=記憶という発送は非常にいまだ多くの人に理解されやすい考え方ではある。
では簡単なことではあるが、記憶が亡くなった人には人生はないのだろうか。人生とは客観的なものである。自分の人生をメタ的に見たときだけ、私たちは人生を語る事ができる。記憶が無くなった人は、それがその人の人生なのだ。

2ー2《記憶の所在》
 実は記憶とは99%が無意識に眠っている中間記憶である。しかし、多くの人が引っ張り出せない。でも脳のどこかに存在はしているので、夢などで出てくる。
そして身体にも記憶は残る、例えば記憶喪失をした人でも携帯の使い方は知っているし、自転車にも乗れる。意識的な記憶がなくなったからと言って、その人の人生はなくなったわけではない。

3《単純化する社会とリアリズム》

 複雑で多様で内面的な人間の営みに、テキストだけの情報を片手に簡単に土足で踏み入ってくることを助長する記憶の映像化は今日の単純化する世界を加速させるだろう。それが、記憶映像の危険性の本質であり、その問題はもろ今日の単純化社会と直結する。
 1ー6で述べたように、世界の単純化は圧倒的にこの記憶映像で進むだろう。そして、テキスト(文字)とコンテキスト(文脈)間にある、身体性とその内的世界の価値がさらに無視されていくだろう。しかし、実はテキストーコンテキストの議論の土俵の前提にある、リアリズムはいつでもコンテクストと同じ部類なのだ。リアリズムはコンテキスト、内的世界、複雑性を持っているからである。以下のような図になる。

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そして記憶がどれだけ映像化されても、その時の感情や感覚は思い出す事ができない。その時どういうったような気持ちであったかという内的な記憶はある時点での解釈で変わってしまう。すなわち、コンテキストの中核である、“その時どんな気持ちだったか”は決して保存され外部化されることはない。
そのことを忘れてしまうのはあまりに愚かであり、映像記憶はそれを助長する。
本当に記憶すべきは客観的事実ではなく、文脈であるその時の気持ちではないだろうか?

そのような事をこの文章を読む人に問いかけたい。世界とは複雑であり、通訳不可能性を持つ人の心があり、テキストで割り切れるような、薄っぺらい世界ではない。世界の単純化は、現実(リアリズム)との乖離そのものである。今作の主人公は最後は、過去の映像世界を断ち切り前に進もうとする。多くの人には彼女の浮気で離婚したからバッドエンドだ。と単純化してうつるかもしれないが、記憶映像という内的記憶力、忘れるという人間の身体性を狂わせ、外部テキストに依存させるシステムを勇気を持って拒否し、辛くとも過去を振り切り不確かな未来に踏み出す主人公の姿は少なくともハッピーエンドに映った。

彼女との日々は彼にとっては悲しい記憶になるかもしれないが、人類の歩むべき素晴らしい記憶である。

長くなりましたが、お付き合いいただきありがとうございました。
とてもおすすめの映画なので是非みてみてくださいね。


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